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No276 滝原神社と洪水 [日本大好き]

No272 において、天照大神を奉斎する地は、『倭姫命世紀』によると、次のような順番で変遷したと記しました。その26番目に、矢田宮と書きました。ここは、三重県伊勢市
楠部町字口矢田とされています。楠部町は範囲が広いので、一概には言えませんが、海抜4m~7mの地帯のようです。
 伊勢は、地盤が固いのか、川から離れますと、意外に海抜が高く洪水になっても内陸部まで浸水しなかったのではないかと考えますが、紀元前後ですと、海抜4mぐらいの所は、海だったのではないかと想像しています。

現在の滝原神社のところで、地図を見ますと、ダムが造られていて、これは農業より治水のためではないかと思っています。支流の大内川のほうへ、ダムが伸びていますから、きっと、大内川の方が水量がおおいのかも知れませんが、宮川の方が、渓流が深いのかも知れません。
治水のためにダムが造られているにも関わらず、滝原神社が沈むほどの洪水が3年前にあったということは、下流では昔から3年に一度ぐらいの洪水はあったはずです。

そこで、滝原神社の所から、地名を適当に取り、その場所の海抜を書いてみました。
滝原神社(三瀬川) 61m、--瀬戸 50m、神原(このはら) 48m、黒坂 29m、大久保 18m
岩出 4m、鹿海町 3m、楠部4m~7m、 宇治山田3m、神宮神田 5m

伊勢内宮 9m
如何ですか? 滝原神社(三瀬川)から-瀬戸で10mの落差です。黒坂から大久保までも、同じく10mの落差です。大久保から岩出までは、14mの落差です。岩出以降は、海水が来ていたか、逆流していたはずです。

そこで、私は内宮が作られた時は、現在のところではなく、別のところであったのではないかと考えました。その一つの根拠が、現在のところですと、洪水には遭いませんが、現在の所は、斎宮から遠すぎるのが気に入りません。では、どこに造られたかを検討します。

伊勢神宮を建立したときに天照大神から倭姫命への神託があったことが、記録にあります。『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」であります。意味は、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、傍国(かたくに)の美まし国なり。この国におらんと欲(おも)ふ。と書いてあるのをここに借用しました。傍国を方国、すなわち、大和にくらべて、地方の国ということにしておられる方もおられました。
『倭姫命世紀』は768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられますが、鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています。詳しくは良く判っていないようです。
神託の内容は、日本書記と全く同じですから、神社関係の人が、日本書紀を移したことになります。問題は、この文章を神社の人は、信頼したというか、あまり考えずに移したかで、対応が全く異なることになります。
斎宮歴史博物館 http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/ のホームページを読んでいますと、プロの研究員の方は、あまり、『倭姫命世紀』に書かれていることを信用されていないようですが、なにもないのに、このようなことも書かないでしょうから、神社の人が、このように考えたでも良いのではないかと思います。

神託は、僅か、これだけです。「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」 なのに、誰も正確に現代文にしておられません。 
意味の理解できない言葉が、4つもあるからです。
(「皈」の漢字は、「帰」と「歸」と同じです)
 神風、常世、傍國、可怜
①神風 は辞書を引きますと、枕詞と書かれています。日本書紀はそれ以前のものですから、昔から、神風という言葉は使われていたのだと思います。
 風神といったかどうか分かりませんが、古事記には、イザナギとイザナミが、志那都比古神(しなつひこのかみ)を生んだと記しています。日本書紀では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記されています。余談ですが、日本書紀は古事記を参考にして作りました。しかし、古事記と同じ漢字は一切使っていないため、どうしても無理があり、級長津彦命は、シナツヒコと読むことはできません。しかし、日本書記は、「長」の漢字を使っていますから、志那都には、息が長い意味があると書いておられる方がおられます。
息が長いと良いことは、海に潜るのにいいのですが、風の神ですから、息吹が長いと製鉄や土器を焼くときに上手くいきます。
 風には、雷神と風神が対になって、害を与えることもありますが、神に祈ることによって、自分たちの都合の良い風を神風と言ったのだと思います。
 
 その実際に神が出てくるのは、奈良の龍田神社に見られます。龍田神社の祭神は、
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみことです。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされていています。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたとい言います。
天武天皇の所に、「竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った」という記録が、元年07月16日まで毎年続けられます。そのことが、気になって、調べたことがあります。私の推理は、奈良の法隆寺の西にある竜田神社の所は、鉄の生産をしていたのではないかと考えて、探りました。この時に、広瀬神社の方は、奈良県の水をすべて集まってくる所にありましたので、天武天皇は、風の神さんに、適当に風を吹かせるように、祈らせたのではないかと思いました。しかし、龍田の鉄の生産は、はっきりしませんでしたが、今でも裏山は、大阪府の柏原市の製鉄が行われたところですから、龍田も関係があったと考えています。その時に考えたことを
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/10/index.html 
のNo30~38に書いていますので、読んでください。
 
 長くなりましたが、ここの神風は、神さんが、人間にやさしい風を送ってくれるところだと解したく思います。伊勢の地で、祈りますと、きっと願を叶えてくれるでしょうと。

②常世。 この言葉が難儀です。 そのまま読めば、常に変わらない。永久に変わらない。常世の長鳴鳥、常世の木の実(橘の果実) 、常世の国 (不老不死の国、海の彼方にある国、死人の国) 常世の虫、常世物、常世辺、などとして使われています。すべて、古事記や万葉集などで使われています。
ここでは、いつまでも居たいような国でしょうか? 「浪重浪皈國」波が何度も押し寄せ、返す国とありますかすら、海岸縁にあることになります。楠部4m~7mの矢田は、作ろうと試みたのではないでしょうか? 葦が生えていたように思われます。洪水もやって来たと推察されます。
私は、楠部4m~7mの矢田ではなく、現在、斎宮跡とされている近くの海岸に近い所ではなかったかと思っています。げぐうは、確か、50年ご位に建てられたと思いますが、現在の内宮のほぼ、西の高台の麓に造られています。現在の内宮の海抜は9mぐらいです。
このように見てきますと、
『倭姫命世紀』に書かれていることは、充てにならないと思われていますが、元伊勢の話は、案外、実際にあったことなのかもしれません。

③傍國--傍國の字は、他では、夜傍(夜に近い)とか道傍(みちばた)などと使われています。傍國を「方国」とかいて、地方の国と捉えておられる方もおられましたが、やはり、天皇や皇族が傍におられる国でしょう。
④可怜—これも困ります。可怜をカレイと読まないで、美しい国(うましくに)と書いてあります。美は(うまし)と読むのでしょうか? 殆どの人が、このように書いておられますから、従っても良いのですが、私は、なんども洪水に見舞われた荒れた土地だったと思うのですが、如何とおもわれますか? 「怜」の字は、見慣れない字ですが、辞書をひきますと、憐れむの俗字とあります。憐れむべき土地だけれども、ずっと、住んでみようとなったのではないでしょうか? 紀元250年ころのことだと思います。


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