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No373 壬申の乱 乗り物もなく、徒歩で [日本大好き]

【この日、天皇は出発して東国に入られた。事は急であったので、乗り物もなく、徒歩でおいでになった。思いがけず県犬養連大伴の乗馬に出会い、それにお乗りになった。皇后は輿に乗って従われた。津振川(吉野の津風呂か)に至って、始めて乗馬が届き、これに乗られた。このときに始めから従った人々は、草壁皇子。忍壁皇子。及舍人朴井連雄君。県犬養連大伴。佐伯連大目。大伴連友国。稚桜部臣五百瀬。書首根摩呂。書直智徳。山背直小林。山背部小田。安斗連智徳。調首淡海之類、二十人あまりであった。女孺十人あまりであった。その日に、菟田の吾城についた。大伴連馬来田・黄書造大伴は吉野宮から追ってかけつけた。このとき屯田司の舍人土師連馬手は天皇の従者の人々に食事をたてまつった。】
 壬申の乱に出発した後は、日本書紀では、上のように書かれています。ここに書かれていない、どこから出発したかだけで、5回要してしまいました。

多くの方は、宮滝を出発したとされて、「津振川」にそって、東国に入られたとされています。日本書紀を訳された宇治谷氏は、吉野の津風呂かと書いておられますが、ほぼ信用していいと思われます。
 津風呂は、地名になっているかどうか確かめていませんが、津風呂湖の名前では地図上で見ることができます。津風呂湖は昭和37年度に完成し、翌年から貯水がはじまり65戸が水没しました。現在は津風呂川となっていますが、「津振川」に沿って65戸も無かったでしょうが、少しは集落があったと想像しています。集落があり、人が通りますと後から川に名前が付きますから、津振川にそって集落があったと考えるのが自然です。
 さて、その集落をめざして、大海人皇子らは、進んだと思いますが、
「思いがけず県犬養連大伴の乗馬に出会い、それにお乗りになった。皇后は輿に乗って従われた。津振川(吉野の津風呂か)に至って、始めて乗馬が届き、これに乗られた。」との文章がありますから、津振の集落までは、全員徒歩であったと思われます。
 「思いがけず県犬養連大伴の乗馬に出会い」とありますが、県犬養連大伴が先に出かけて、津振の集落で馬と輿を準備したのでしょうか?
この時の総勢は、女性を入れて30人ぐらいですが、4年20日に吉野に着いたときに、多くの舎人を集めて
【「自分はこれから仏道に入り、修行をする。自分と一緒に修道する者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引き返して役所に戻るように」といわれた。しかし、帰る者はなかった。さらに舎人を集めて、前の如く告げられると、舎人の半分は留まり半分は退出した】と日本書紀に書いてあります。
 この時点では、まだ、朝廷側にくみする者はいたと思われますから、この話の内容は、詳細ですが、藤原氏の者は知っていたかも知れません。
 赤穂浪士のことを考えますと、もう少し減りませんと、信頼できるかどうか判りません。赤穂浪士の時は、その後、苦難が続きますから、落伍者がでて、最終的には、47人になりました。壬申の乱では、はじめから、馬や輿を用意しますと、怪しまれますから、ゆっくりと旅に出るようにしたのではないかと思いますが、何分、全員で掛けますと、怪しまれます。そこで、【始めから従った人々は、草壁皇子。忍壁皇子。及舍人朴井連雄君。県犬養連大伴。佐伯連大目。大伴連友国。稚桜部臣五百瀬。書首根摩呂。書直智徳。山背直小林。山背部小田。安斗連智徳。調首淡海之類、二十人あまりであった。女孺十人あまりであった。】となっていると思います。
 県犬養連大伴は別の道を言ったのではないかと思います。
 宮滝を上流にいきますと、「下矢治」というバス停があります。この前後に、北菜摘とか、対岸には、南菜摘とか、夏実、夏実の里等の地名が見えます。「下矢治」のバス停の少し手前に山に向かってはいる道が二つあります。宮滝に近い方は、「お峠」を通り、バス停に近い(20mぐらい)近い道は、「矢治峠」を通るそうです。「お峠」のみとは、現在、草が多くて通行困難だそうです。峠道は、当然けわしいですが、距離は短くて時間にして14分ぐらいだそうです。
 このような道を、大勢で急いだのではおかしいですから、この道は、県犬養連大伴が急いで通り、馬と輿の手配をしたのではないでしょうか?
大名持神社をから少し、宮滝の方に進みますと、道は二手に分かれます。左手を取りますと、峠道と合流できます。
【壬申の乱その舞台を歩く】
http://www.geocities.jp/kodaishi3939/jinsin/aruku1.html
 このホームページの開設者は、「矢治峠」を大海人皇子らは、通ったと思われて歩かれたことになります。(写真がいっぱいです。津風呂湖まで15分で行っておられます)
 
天武天皇紀の上は、殆ど、壬申の乱のことが書いてあり、この部分は、古事記に書いてあったのではないかと書きました。【No355 壬申の乱と日本書紀と天武紀上】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-05
 古事記を書いた太安万侶は、はじめから、馬や輿を用意して、東国へ向けて進軍しましたとは書けません。だから、「思いがけず県犬養連大伴の乗馬に出会い、それにお乗りになった。皇后は輿に乗って従われた。津振川(吉野の津風呂か)に至って、始めて乗馬が届き、これに乗られた。」
 と書いてあったのだと思います。この文章ですと、馬は偶然出会って大海人皇子が乗られたようですが、輿は、はじめから乗っておられたのかどうか判りません。はじめから乗っておられたのであれば、「矢治峠」も「お峠」も無理でしょう。しかし、峠に「お」がついているのも不思議でするね。誰か高貴な方が通られたのでしょう。
 このような見方をしながら、日本書紀を読みますと、おかしな部分がいっぱいです。

さて、日本書紀に書かれたを図んなことから、想像を膨らませましたら、大海人皇子の本隊は、大名持神社から出発し、怪しまれないように、ハイキング気分で歩いたと思われます。6月24日に出立したことは書かれてありますが、あまり早いのもおかしいでしょうから、普通に出かけたでしょう。峠越えをしたと思われる県犬養連大伴は、3分の1のスピードで、津振の集落に到着したと思われます。そして、調達と云うより、馬と輿は、用意してあったのでしょう。
 問題は、この30人の中に、スパイはいなかったのかと云いますと、いなかったのではないかと思っています。と云いますのは、日本書紀の天武紀の下には、壬申の乱のときの部下が、次々死んでいった記録が残っています。

【No25天武天皇は暗殺された】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/09/no25__fa61.html
に書きましたので、読んでください。
天武天皇は暗殺されたとは限りませんが、部下は毒殺されたでしょう。天武天皇も、暗殺が進んでいるのを知って、古事記の編纂を太安万侶に命じました。その時の天皇の気持ちを太安万侶は古事記の序文に書き残しました。
 どこに書いてあるか、ご自分で探してください。

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