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No828神武東征(277)  神武天皇(220)  大物主大神(48) 三輪神社の由緒(7) [日本大好き]

西伯郡大和村大字小波にある三輪神社の由緒は、後の世になって、創作されたものではないかと疑っています。
 由緒は、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-234.html
 に掲載しています。
 
<当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧請せるものなりと云ふ、>
と書いてあります。
その様に云い伝えられてきたので、そうなのでしょう。全国にある三輪神社は、殆どが、同じように云い伝えられているそうです。
〔勧請せるものなり〕と書いてある神社は、全部で416社あるそうです。
『神奈備 大神 三輪明神』という書物の巻末に 「大神神社分祀一覧」が掲載されています。
前から順番に、神社名などを紹介します。

①三輪神社
秋田県雄勝郡羽後町杉宮字宮林1
三輪神社は、養老年間(717~724)に大和の大神神社を勧請して創始したと伝えられる。現在の三輪神社本殿は、永禄5年(1562)の火災をまぬがれたという記録や形式技法などから室町時代後期の建立と考えられる。三輪神社本殿の造りは、滋賀県内の室町時代遺構に多く見られるなど地域的に限定される形式で、関東・東北では三輪神社本殿が唯一の遺構、こうした形式の採用やその伝播経路はなぞとなっている。昭和29年3月20日、国指定重要有形文化財に指定される。

②眞晝山三輪神社
秋田県仙北郡千畑村千屋浪花字一丈木二 (秋田県仙北郡美郷町浪花字一丈木2)
古くから信仰の対象として真昼山大権現社(三輪神社)が設けられ、中世には周辺の小野寺氏や本堂氏の氏神ともなっていた。


③大神神社 
山形県飽海郡平田町大字山楯字北山添4  鳥海山大物忌神社のことか。
鳥海山大物忌神社(山形県飽海郡)の社伝には、欽明天皇二十五年(564年)、鳥海山上に鎮座とあるが、大物忌神の登場は持統天皇が伊勢に行幸した692年以降であり、『続日本記』は出羽郡(飽海、田川)の設置は和銅元年(708年)だとしている。これより早い段階に蝦夷の勢力圏内での大和朝廷の神の鎮座は不可能だろう。

④大杉神社 郷社 神階正一位
茨城県稲敷郡桜川村大字阿波958
地図 
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.9516806&lon=140.38308041&mode=map&datum=wgs

祭神は倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)および大己貴命、少彦名命である。「大杉」の社名は、境内の大杉を神体としていることによる。
創立 神護景雲元年(767年)
http://www.oosugi-jinja.or.jp/


⑤大杉神社 無格社
茨城県猿島郡境町大字若林2745
地図 http://www.jinja.in/single/77905.html
祭神 倭大物主櫛甕玉命


⑥阿波山上神社
茨城県東茨城郡大字阿波山字宮原664(茨城県東茨城郡城里町大字阿波山664-1 )
地図 http://www.mapion.co.jp/m/36.5158455555556_140.3666575_8/

創立大宝元年(701) 延喜式内社 郷社 
祭神 少彦名命

参考-- http://www.genbu.net/data/hitati/awasanjyou_title.htm

Webから 神社ごとに検索し、参考にさせて頂きました。

創立大宝元年(701) というように、見事に、いつ創立したかが判っています。勧請したのですから、判っているのが当り前です。問題は、送りだした奈良の大神神社にその記録が残っているかです。
先ほど、三輪神社の由緒は、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-234.html に書いていますと書きました。ここは、何時からか分らないほど前から、鳥取県の神社の資料の保管場に使っています。
 例えば、迩迩藝命
瓊瓊芸命
瓊瓊杵尊
瓊々杵命
瓊々芸命
をキーワードにして検索して頂きますと、鳥取県でニニギの命を祀った神社が見付かります。
①上種の大宮神社 
②上福田の 楯縫神社 
③山口の矢送神社
④山口の日吉神社  
⑤泰久寺の神田神社  
⑥清谷の上里神社

ニニギ命は、天孫族の直系の人ですから、創立の時の様子が判っているものもありますが、殆ど、創立年代不詳と記されています。
 
それに比して、三輪神社は、どうして、全て創立年代が残っているのでしょう。
 考えれる事は、ここに書かれてある通りに、計画的に、全国に三輪神社を造って行ったのかも知れません。それで、もう1300年は成りますから、もっと、創立年代不詳があっても良い筈ですが、がんばって、残した事になります。
 逆に、鳥取県の神社の由緒は、大切なところは、抹殺したかです。
 この事を立証するためには、鳥取県の神社のすべてを調べる必要があります。調べる事が困難であれば、他の府県の神社はどのようになっているかを調べれば良いことになります。
 そこで、先日から、岡山県の神社のデーターを入力しています。キーワードに岡山を入れますと、今の所、9件が入っています。現在の調子では、3年先になりそうです。
 岡山県の神社の創始年代が多く書かれていますと、鳥取県は消された事になります。しかし、岡山県は、鳥取県とは少し、性格(?)が違いますから、一概にそうとは言えないかもしれません。そうなりますと、別の県の神社史も必要になってきます。

 こうした疑問の外に、どうして、奈良の桜井市に居られた人が、秋田や茨城県に移動することになったのでしょうと気になります。神さんだけを連れて行ったのでは理由にならないでしょう。
人間が、先に移動されて、大物主の神さんを祀りたいから、奈良の大神神社に要請することを「勧請」と称する筈です。
 そうではなく、秋田や茨城と奈良とは、常に行き来があったと考えませんと、このような遠い所へ、行く理由が見つかりません。
④の大杉神社は、祭神といい、神階正一位をどのように解釈したら良いのでしょう。

日本を征服した記念号である日本書紀を720年に完成した後、全国に、藤原氏の拠点をどんどん築いていった一つの証拠だろうと考えます。
 これ以上の拠点は、全国に造られた〔式内社〕であろうと考えます。

歴史は、分析をするのに、面倒なことをしなければなりません。
 これが、数字で表れますと、簡単です。

税金は納めなければなりませんが、だれでも、できれば少なく納めたいと思います。そこで、収入を減らすか、支出を増やして、減税になるようにしようとします。
 目に見えて簡単なのは、支出です。例えば、ガソリン代を増やそうとしても、領収書が゛ありませんと、税務署は認めてくれませんので、領収書を揃えます。使っていないガソリン代の領収書をそろえようとしますと、誰かから、頂くしかありません。この調子でガソリン代を増やしますと、備品などですと、それ程比例しませんが、ガソリンを使って走り回ったと云うことは、仕事が一杯あった事になります。そうなりますと、収入は少ないのに、ガソリン代が増えたという矛盾が生じます。
 これは、数字ですから、税務署員のかたですと、面白いほど、直感的に判ると思います。
 これは変な一例ですが、数字は、いろいろのことを語ってくれます。

ところが、歴史は、私の様に腹黒く、疑って掛りませんと、間違いを見付けることはできません。
 さあ、私の奈良の大神神社は、日本書紀にあわせて、無理やりに造った神社という仮説は立証できるか、まだまだ先は遠いです。

次回は、西伯郡大和村大字小波にある三輪神社の由緒について、検討を加えようと思います。

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