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歴史各論  勾玉(29)  勾玉製造元(18ヒスイ製勾玉(9) 横田遺跡  [日本大好き]

今日から、このページを読まれる方は、3つ前の「椛島山遺跡」を読み直してください。
 
 椛島山遺跡に住んでいたと思われる中国人は、その一部は、山口県の竹島古墳に移動したのではないかと思いました。
理由はも次のページの最後に書きましたが、文章では説明がしにくいのです。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-790.html 
 紀元前に、中国からやって来た人がいました。六角川に浮かぶ、小さな「椛島」(かばしま)に、生活の基盤を置いたと思われます。
 方格規矩四神鏡とはと、検索して調べていましたら、竹島古墳
が見つかりました。芋づる式に、目についたものを調べていきますと、横田遺跡が見つかりましたが、この遺跡は、佐賀県の吉野ケ里遺跡から、1キロ離れているだけです。外にもいっぱいあります。

 竹島古墳と関係あるのは、群馬県、奈良県、兵庫県(但馬)、山口県へつながって、佐賀県に戻ってきました。

これらの間には、強固な証拠らしきものはありますが、「椛島山遺跡」と竹島古墳の間には、証拠らしいものはありません。
 偶然、竹島古墳(小さな島)の近く、海の中に「樺島」と言う名を見付けました。
 
 歴史学領域では、地名は、無視されますが、田村誠一氏は、『楽しい人生』記紀12
から地名のことを書いておられます。記紀によって、地名の表記が違うところにめを付けておられます。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/06/12-acd6.html
 「椛島」と「樺島」は、どちらも〔かばしま〕と読みます。私が見つけた「カバシマ」は、佐賀の「椛島」は、はじめは、「樺島」と書いてあったのを、「椛島」は、日本で作られた漢字だからです。
 山口県に移動した人達は、「椛島」に似た小さな竹島古墳に住みつきましたが、少し、島を離れると「樺島」は、住むことはことはできないぐらい小さいと思いますが、目印にはなったので、「樺島」と名付けたと想像しただけです。
 
 前置きが長くなりましたが、横田遺跡は吉野ヶ里の近くです。
 この遺跡は、少し、下火になった時に行ってきました。
 本も買いましたが、邪馬台国だと云われました。もし、そうであれば、240年頃のことになります。しかし、其の後研究が進みますと、遺跡は、紀元前に遡るらしくなってきました。
 今日紹介しました横田遺跡は吉野ヶ里の近くですから、「椛島山遺跡」とはつながっていた可能性は高いです。
 群馬県から、絹はどのように流れて行ったかは、少しずつ、埋められて行く様な気がしています。

参考に、(7年前に私が書いたものです)
No293 秩父の絹は、どのようにして運ばれたか?
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-02

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