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歴史各論  勾玉(32)  勾玉製造元(21)ヒスイ製勾玉(11) 天神山古墳(3) [日本大好き]

大和天神山古墳
ウィキペディァによりますと、大和天神山古墳の事は、次のようになります。
台地上に立地する墳丘長113メートルの前方後円墳で、短めの前方部はわずかに撥形に開いており、その開きは後円部の直径を超えるものではない。葺石や埴輪がなかった。段築や周濠が不明瞭で、本来なかった可能性も指摘されている。
後円部のほぼ中央に長さ6.1メートルの竪穴式石室が検出された。石室の中央部には、現存の長さ2.6メートルの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切って、内法1×0.5メートルの木櫃状になっている。、 本古墳には、合掌式つまり石室の両側へと持ち送って、特に天井石を設けない特異な竪穴式石室である。
石室の内部には、一見木棺のようであるが細部を検討すると木櫃(もくひつ)とした方がよい大きな木製容器が置かれて、総重量約41キロの水銀朱が納められていた。朱を大量に入手し使用している点で、3キロの朱を使用していた岡山県倉敷市の楯築古墳があり、東瀬戸内海との関連が考えられる。
この木櫃の底板は、長さ2.6メートル、幅75センチであるが、断面は緩やかなU字形を呈している。しかし、巨木を刳り抜いたものではなく、縦に長い三枚の板を合わせたものである。従って内部の底面は水平でなく、両端がカーブしてあがっている。
木櫃のなかに水銀朱を取り囲むように20面の銅鏡が置かれていた。20面の銅鏡は木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは全く異なる。これは、「邪」から被葬者を守ろうとしたと解されている。古墳社会では階層化が進み、青銅鏡が社会的・政治的に重要なものであり、製作数が飛躍的に増大する[1]。 また、木口板(こぐちいた)の外部にも北方で2面、南方で1面置かれていて、計23面の銅鏡が検出されている。
木櫃内の20面を種類別に見ると、方格規矩鏡5面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面[2]、斜縁変形神獣鏡2面、獣形鏡3面、画像鏡2面、人物鳥獣文鏡[3]である。
武器は、鉄製で、刀が3点、剣が4点、鉄鏃が5点出土している。刀は一般的な片刃でなく、切っ先から20センチまで両刃になった特異なものである。 剣では木製の柄装具に直弧文[4]を施している。これらの剣の一部が絹布に巻かれていた。鉄鏃は、柳葉形で、木製矢柄が一部残っていた。[5]。
前方部から二重口縁壺(布留Ⅰ式)から出土している。

以上の事から、大和天神山古墳の特徴はつぎのようになると思われます。
①水銀朱が41キロと多かった。
②天井石を設けない特異な竪穴式石室
③銅鏡が23面あった。
④木棺と思われる棺があったが、人が入っていた形跡がなかった。

以上の事から、この墳墓は、崇神天皇陵の陪塚と書かれています。

現在の墳墓は、道路によって削られているそうですから、崇神天皇陵に近くに作られたことが判ります。

そして、そのような流れで、ホームページを作ってあるのが、次のものです。

意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_30.htm

以下は、私の考えたことです。
 出土した鏡は7種類です。 整理すると次の様になります。
①方格規矩鏡5面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
②内行花文鏡4面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
③画文帯神獣鏡4面[2]--- 中国鏡--三国時代(3世紀)
④斜縁変形神獣鏡2面---日本製
⑤獣形鏡3面-------日本製
⑥画像鏡2面-------日本製
⑦人物鳥獣文鏡----- 日本製

①~③は、間違いなく、中国から派遣されて日本にやって来た時に与えられた鏡だと思われます。
 中国の鏡が古墳に埋葬されるときは、皇帝などから貰ったものは、大切なものですから、頭の近くとか、少なくとも、棺の中に納められています。ところが、天神山古墳では、20面が、棺の中の周囲に立てて並べてあり、残りの3面は筆切の外にあったと記されています。
下に、奈良国立博物館の説明文を記しておきました。どう云うわけか、出土したか鏡の枚数が異なります。
  崇神天皇陵の陪塚というのは、間違いではないでしょうか。博物館では、4世紀の古墳としておられますが、3世紀の初めではないでしょうか。
 後漢代(1~2世紀)の鏡が多いです。この鏡を大切に何代にも渡って持っていたということでしようか。

 崇神天皇の持ち物が、大和天神山古墳からでてきたのであれば、天皇は中国の鏡をどのようにして、、何時手に入れたのでしょう。大和天神山古墳は典型的な中国人のお墓です。
私がもっとも重要視するのは、どの鏡も割れていないということです。崇神天皇は258年ころに崩御されたと考えています。
 存命中、大和天神山古墳を造ったとしますと、中国人の魂とも思える鏡は、粉々に割ったと思っています。
 このように考えますと、3世紀の終わりか、4世紀の初めではないかと推理します。



天神山古墳では、奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/727-19.html波文縁方格規矩鏡は
〔波文縁方格規矩鏡は面径17.5cm。出土時の破損で鈕及び内区約三分の一を欠失する〕

①波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)
径15.8  古墳時代 4世紀

http://www.narahaku.go.jp/collection/727-0.html に次のような説明文がヶて最されていました。

天神山古墳は、大和盆地東辺に立地する柳本(やなぎもと)古墳群の中の1つで、いわゆる崇神(すじん)天皇陵の西方に位置する全長113メートルの前方後円墳である。銅鏡は、後円部中央の竪穴式石室の中の木櫃(ひつ)の内外から発見されたものである。その櫃内には41キログラムの水銀朱が埋納され、これをとりまくように鏡面を上に向けて20面の鏡と、木櫃外にも3面の鏡が並べられ、さらにその内外に鉄剣、鉄刀、鉄鏃、刀子、鎌などが置かれていた。 鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面で一周し、櫃外の北側に2面と南側にも1面が配され、その内訳は、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)6面、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)4面、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)4面、獣形鏡(じゅうけいきょう)4面、画像鏡(がぞうきょう)2面、三角縁変形神獣鏡(さんかくぶちへんけいしんじゅうきょう)2面、人物鳥獣文鏡(じんぶつちょうじゅうもんきょう)1面である。  天神山古墳の年代は4世紀後半ごろとされているが、これらの鏡は前期古墳によくみられる典型的な三角縁神獣鏡を含まず、後漢時代の方格規矩鏡や内行花文鏡などを主体とする特異な組合せを示している。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に崇神天皇陵があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)とも考えられている。

①三角縁変形神獣鏡-2面---- http://bunka7.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=199962 径17.0
②半三角縁人物鳥獣文鏡 --- http://bunka7.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=225669 径15.1
③画文帯神獣鏡--- http://www.narahaku.go.jp/collection/727-2.html 径13.9
④内行花文鏡--- http://www.narahaku.go.jp/collection/v-727-3.html 径19.5
⑤波文縁方格規矩鏡 http://www.narahaku.go.jp/collection/727-16.html 径16.1

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