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歴史各論  勾玉(33)  勾玉製造元(22)ヒスイ製勾玉(12) 天神山古墳(4) [日本大好き]

天神山古墳のことをもう一度考えて見ようと思います。
 前回は、随分長い文章を掲載して申し訳ありませんでした。
 
 最初に掲載したのが、ウィキペディアに書いてあったものです。これは、きっと、歴史のプロの方のものだと思います。
 次は、
意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_30.htm
です。このホームページは、写真があるだけに、理解しやすいものです。随分詳しく理解して書いておられます。
 次は、奈良国立博物館の方が書かれたものです。
http://www.narahaku.go.jp/collection/727-0.html  に掲載されていました。
 
 奈良国立博物館のものは、各鏡の写真がありますから、ありがたいです。

これを書かれた三人に共通することは、天神山古墳は、崇神天皇陵の陪塚であることです。と言うことは、陪塚は、一つであるということです。少なくとも、20枚は、崇神天皇が持っていた銅鏡と考えておられることになります。
真実かどうか 判りませんが、崇神天皇に関しては、次の4つの戦争をした事が書いてあります。 崇神天皇10年に、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、討伐を命じたことになっています。この戦争を命じた時は、崇神天皇は奈良に居なくて、岡山に居たと考えています。
 本人は、戦争をしなくても、もう少し武器らしいものがあってもいいと思います。

鏡は天皇も持っていたかも知れませんが、お墓に埋葬する習慣はなかったと思います。中国人も、多くの場合、一つの鏡が埋葬されたと思います。天神山古墳や隣の黒塚古墳、椿井大塚古墳のように、沢山の鏡が出土した古墳は、特別に権力があるというか、新しい部下に渡すために持っていた鏡だと考えます。

 では、人が埋葬されていなかったということは、どのように考えればいいのでしょう。
①方格規矩鏡5面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
②内行花文鏡4面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
③画文帯神獣鏡4面[2]--- 中国鏡--三国時代(3世紀)
  上の鏡は、全部で、9枚です。この鏡は、それぞれの人が一枚ずつ、貰ったものではないかと思います。
 人の葬られた跡がなかったどころか、9人、一緒に葬られたとは考えられないでしょうか。

 今までに知っている範囲ではありません。

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