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歴史各論  勾玉(34)  勾玉製造元(23)ヒスイ製勾玉(13) 天神山古墳(5) [日本大好き]

ウィキペディアには、この4種が日本製。日本製の鏡は中国鏡を模倣しているが、文様に対する知識が少なく、技術も高くなく、稚拙な仕上がりになっている。
と、態々、仿製とは書かないで、4種が日本製と書いておられます。

意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_30.htmを書かれた方は、
「出土した23面の銅鏡には三角縁神獣鏡は含まれず、大部分は舶載鏡だった」
とかいて、全部、舶載鏡であったと書いておられます。
 三角縁神獣鏡は、含まずと書いておられますが、
奈良国立博物館の資料には、
http://bunka7.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=199962三角縁変形神獣鏡-2面とあり、変形とありますから、三角縁神獣鏡ではないのかと思いましたら、正面から写した写真が掲載されています。三角の縁の部分は、三角縁神獣鏡に見えます。
 この日本製という言葉は、日本で作られた鏡という意味でしょう。これは、中国人が作ったので、中国製でしょう。
 
 当初は、将軍級の人が、皇帝から鏡を支給されて日本にやってきます。その後、自分の部下をあちこちに派遣する時は、自分から、支給することになったと思います。その鏡は、本国から、送られていたのではないでしょうか。
 
 朝鮮の古代史『三国史記』に173年に卑弥呼が使者を派遣した記述があります。
【三国史記】阿達羅20年(173年)夏五月、倭国の女王の卑弥呼が使者をよこして礼物を献じた。
 文章は至って簡単ですが、新羅は倭人のハハの国です。新羅の初代国王は神武の兄の稲冰命です。このときに、にほんから、命令されたとは、書きたくないから、「礼物を献じた」と書きましたが、日本と共同で、任那に軍事基地を作ったのではないでしょうか。
 173年を境に、中国は、銅鏡を送ることが出来なくなったのではないかと推察しています。

173年以後は、鏡は、日本で製作されるようになったのではと考えます。銅鏡だけではなく、武器も食料も日本で調達しなければならなくなり、日本にいる中国人の戦意は、低下したと思われます。せめて、銅鏡の大きさだけを大きくするようになったのではないでしょうか。
 173年以後は、中国に運ばれる絹は大幅に減少し、後漢の経済にガタがきて、九州には、呉の国。福知山には、魏の国の人がやってきたのではないかと考えています。

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