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歴史各論  勾玉(36)  勾玉製造元(25)ヒスイ製勾玉(15) 天神山古墳(7) [日本大好き]

崇神天皇5年の事として、記紀ともに多くの人が死んだことが記されています。
崇神天皇5年に次の様なことが、日本書紀に書いてあります。
 国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶ程であった。
古事記には、日本書紀以上の表現が使われています。こちらは、何時とは書いてありません。

 この天皇の御世に、疫病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。

記紀の両方に記録された事ですから、国内に疫病多く発生したことは確かでしょう。

 これだけですと、どのような疫病であったか判りませんが、中国の資料を眺めますと、
189年 中国では、一年で中平(185年 - 189年)光熹(189年)昭寧(189年)と
3回元号が変わっています。(大変な事件が有ったことになります) 
 この頃、中国人は、頻繁に中国と日本の間を行き来し、絹を運んでいました。
 疫病は、スペイン風邪のようなものではなかったでしょうか。189年に日本へ、ウイルスを持ち込んだと推理できます。
 当時、173年以降に任那と言う軍事基地が出来ましたので、中国人は、任那には立ち寄らなかったのではないでしょうか。
 たちよっていますと、新羅にもスペイン風邪は、蔓延したでしょうが、次の様な記事が残されています。
 「三国史記の193年に、
 〔倭人、大いに鐖う。来りて食を求むる者千余人なり〕

 以上の事から、中国で189年に発生したスペイン風邪は、190年には、韓国漢国の兵士が日本に持ち込み、日本の半分くらいの人が死んだと思われます。この年は、その前に収穫したコメはあったはずですが、半分もいなくなりますと、次の年、191年の田植えは、半分もでき無なかったでしょう。192年の収穫は大幅に減ったと思われます。
 飢餓状態にてえることが出来ない人が、193年に新羅に移住したと思われます。
 と言うことは、崇神天皇5年は、紀元後191年か、192年と言うことになります。

 日本で、半分ぐらいの人が死んだということは、中国でも半分ぐらいの人が死んだと考えてよいことになります。
 これまでに、多くの物資と兵隊を日本に送りこんでいた中国は、日本書紀へ送ることは出来なくなったはずです。とくに、鏡は、全く来ないとなりますと、兵士の戦意の低下につながりますから、日本で銅鏡を作ることになります。
 それだけではなく、一層、立派な鏡を作ることになったのではと推理しています。立派すなわち、大型の銅鏡の製作が行われたと考えます。

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