SSブログ

歴史各論  勾玉(48)  勾玉製造元(37)ヒスイ製勾玉(27) 造山古墳(2) [日本大好き]

前回、ウィキペディアは、いい加減なことを書いていると批判しながら、又、利用するのもおかしいですが、古墳の前方部について、次のようなことが書いてあります。

前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が作られており、鐘突き堂が付属している。この鐘突堂のそばに手水鉢があり、その手水鉢が阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であり、風雨に晒されている。また、社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。

 ここに書いてあることは、どういう意味でしょうか。荒神社の手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分である。棺桶であることを知っていながら、現在でも、造山集落の皆さんは、手水鉢として使っておられるのでしょうか。
〔風雨に晒されている〕とも書いてあります。手水鉢として使っているのであれば、屋根ぐらいは作ると思われますが、屋根はないのでしょうか。
〔この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、〕ここまで、推測されたのであれば、石棺が、盗まれた例は外にもあるのでしょうか。石棺を使って、お地蔵さんを作ってあるのは見ました。この文章から、〔新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある〕が続いていますから、この石棺は、新庄車塚古墳より盗んできたということでしょうか。
 新庄車塚古墳は、造山古墳から近くにあったらしいですが、現在は、消滅しかかっています。他人のお墓を壊わす理由は、どのようなものがあるのでしょう。盗まれたのではなく、壊されたものは、埴輪、銅鏡が多いと思われます。
 円筒埴輪は、穴の開いた部分だけを地上にだして、後は、古墳の崩壊を防ぐために、地下に埋めてあるのが正しいと思います。地上に出た部分は、1300年も経てば、壊れるのが当たり前です。
 銅鏡は、古墳に拠りますと、粉々に割れているのもあります。これは、粉々にされたのだと思います。憎しみが強いほど、粉々にされたと思います。
 例えば、明日香の石舞台があります。これは、石棺はどうなっていたのかわかりません。石槨のおおきな石が残っています。ほんらいなら、あの石の上に土でオウワレていたと思いますが、土はゼロです。雨で、土は流れてしまったのでしょうか? そうではなく、この墓の被葬者は、石舞台が立派であるだけに、恨みもいっぱいであったために、壊され、石棺も、壊されたと考えたいです。
  造山古墳は、発掘されていませんから、後円部に石棺はあるはずですが、古墳が巨大であるだけに、石棺も放り出されている可能性は大きいです。前方部まで、引きづり出しましたが、放置されたのではないでしょうか。
仮に、余所から運ばれたにせよ、1300年も経った今でも、〔風雨に晒されている〕ということは、荒神社を祭っている人達からは、余り喜ばれない存在のように思われます。
 いい加減な記事ばかりですから、私もいい加減なことを書いて見ます。

 この手水鉢は、造山古墳から引きずり出されたものとしてのお話を次回に書きます。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。