SSブログ

歴史各論  勾玉(49)  勾玉製造元(38)ヒスイ製勾玉(28) 造山古墳(3) [日本大好き]

造山古墳の被葬者が、吉備王国の首長だとしますと、それでおしまいです。その他の多い古墳がどうしてあるのか説明が付きません。専門家が云われる5世紀から5世紀の中ごろまでのものとしますと、岡山にある古墳は、6世紀中ごろまでに、相当のラッシュで作らなければなりません。
 造山古墳が、吉備王国の首長のお墓としますと、王国を支える人民がどれほどいたことになるかです。仮に10万人いたとします。その人たちは、なにをして生計をたてていたか考える必要があります。
 所が、関東から絹を運ぶ仕事をしていたのであれば、湯迫車塚古墳の被葬者と同じで、産業らしきものはなくても、あの大きな古墳を築ことは出来たと思われます。
 では、いつ頃、造山古墳を造った人達は、岡山へやって来たのでしょう。
私は、いつでも来ることが出来たと思います。例えば、紀元前100年でも可能です。問題は、そのころにやって来たとして、あの大きな古墳を造る技術を持っていたかどうかです。
 平地に前方後円墳を造るためには、あの形が、重要だったのではないかと考えます。次に、周濠、葺石、円筒埴輪は、必要だったのではないかと考えます。その前方後円墳は、中国では作られていませんから、造山古墳の被葬者には、無理だったのではと思います。
 もっとも、古墳を造ったのは、土師ですから、そのころに、周りに土師がいたことが判れば解決です。
 これを全て備えていたのは、神戸市の五色塚古墳ではないかと思います。造山古墳の被葬者は,明石沖を通った可能性はあります。ただ、難儀なことは、神戸市の専門家は、5世紀前後に造られたしておられますから、紀元前100年に見ることはできません。
  前回に書きましたように、荒神社の手水鉢が、造山古墳のもので、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であるとしますと、話は違ってきます。
 造山古墳の被葬者は、古墳を造るときに、石棺は、近くの竜山石や四国の石を使えばいいのに、態々、阿蘇から凝灰岩を運んだことになります。ひょっとすると、石さえあれば石棺はできるとは限りませんから、石工も呼んだか、九州で造らせたかも知れません。
 どうして、そのようになったかです。竜山石は、いまでこそ、竜山と〔竜〕の字がついていますから、中国人が取り仕切っていましたが、造山古墳の被葬者が吉備にやって来た頃は、竜山石を使うことはできなかったのだと思います。
 では、造山古墳の被葬者が吉備にやって来た頃はといえば、何時の頃か判りません。
 神武東征が行われたのは、紀元前です。全行程で、16年かかったことになっています。神武天皇が、吉備を征伐しようとしましたら、吉備は8年かかったと古事記は伝えます。奈良のナガスネヒコ等と戦って、柏原に宮城を造ったのが、紀元元年1月1日ですから、
紀元前10年ぐらいは、広島から岡山に掛けて、中国人の勢力が強かったことが判ります。

 ただ、この頃に、造山古墳が造られたとしますと、五色塚古墳は、それ以前にあったということになり、日本中の歴史家を相手に戦いをするようなことになります。
 それでも、造山古墳は、全国で4番目に大きいので、仁徳天皇陵と同じ頃の5世紀では、吉備王国の歴史は、語れないことになります。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。