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歴史各論 三角縁神獣鏡(100) 魏志倭人伝(51) 邪馬壹国は、何所に(47)邪馬壹国(6) [三角縁神獣鏡]

前回は、10代ぐらいまでの天皇は、100才ぐらいまで生きたのではと考えて見ました。それが、邪馬壹国とどのような関係があるのだと思われたでしょう。

 邪馬壹国とは、関係はありません。

邪馬壹国は、中国の魏志倭人伝に書いてある国です。日本の資料には残っていないのですが、みなさん間違いなくあった国だと思っておられます。
 間違いなくあったのであれば、どの辺りにあったのか。それは、どれぐらいの広さのくにであったかぐらいの事は、判っていて当然です。

 私のような素人を含めますと、邪馬壹国は九州、四国、岡山(私の意見)、滋賀県(近江八幡)、奈良県などなどです。一番有力な説は、九州のようです。佐賀県で、吉野ヶ里遺跡が発掘された時は、此処が、邪馬壹国と発掘された方や、新聞社が、ほぼ決定の様に書かれました。そのように書いてある本を二冊購入しました。
 なぜ騒がれたかと云いますと、魏志倭人伝に書いてあった環濠などをはじめとして、全部揃っていると云われました。
 本当は、そうではなく、吉野ヶ里遺跡が邪馬壹国を彷彿させるに十分な広さがあったからだと思いました。
 ほとぼりが冷めた頃に、訪れました。折角、遠くまで行ったのに、がっかりしました。
吉野ヶ里は、あまりにも狭かったからです。帰ってから、吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を調べました。

http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html
 
これらの遺跡は、精しくは調べていませんが、吉野ヶ里遺跡と何等かの関係はあったと思いますが、邪馬壹国ではないと思いました。 中国人のお墓だと思われるものが、見つかっています。

 魏志倭人伝には、邪馬壹国は七万戸とあります。吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を合わせますと、これぐらいの人口を養うことが出来ますが、吉野ヶ里遺跡だけでは、無理だと思いました。
 七万戸には、何人の人間が住んでいたのかを知るつもりになっています。

〔崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です〕と書きました。
 これは、魏志倭人伝ではなくて、どうやら、日本書紀に書いてあった記事から、計算されたものです。

 日本書紀は、720年に完成したことになっています。 今でこそ、168才と書けば、誰も相手にしません。この時に、崇神天皇は、享年168才となっていますが、100才以上の人が、全くいなかったら、日本書紀は、誰にも信用されなかったでしょう。日本書紀は、現在でも、読める人は、歴史を勉強している人でも、一人もいないのですから、720年当時は、読める人は、殆どいなかったと思います。それにしても、中国人で一杯でしたから、500人ぐらいの人は、読むことが出来たでしょう。
 
 日本書紀の中で、素人でもおかしいとすぐわかる箇所が、崇神天皇の享年168才でしょう。
 崇神天皇一人ではありません。9人もの、享年を60年ごまかした日本書紀の編集者は、怪しまれずに済んだのでしょうか。
 少しは、変だと思う人もいたでしょうが、延々と、現在までの日本人を誤魔化せたということは、いくつかと要因があったと考えるしかないでしょう。

 要因その1は、当時は、168才は無理としても、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと思います。
 ここ数年、日本人の寿命は、年々伸びています。100才を超える人が増えてきました。
 後、10年もしますと、110才を超える人は、増えるのではと考えています。

次回は、要因その2を書いて見ます。

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