歴史各論 三角縁神獣鏡(102)魏志倭人伝(53) 邪馬壹国は、何所に(49)邪馬壹国(8) [三角縁神獣鏡]
邪馬壹国と云う国が、日本にあったとことは、誰もが信用しているのに、日本の歴史書である古事記にも、日本書紀にも書いてありません。
邪馬壹国のことが書いてあるのは、中国の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)と書いてあります。
簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。
卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。
卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200~248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。
同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。
160年頃 - ~248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。
天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。
日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)とされています。
神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、
卑弥呼が女王をしていた200~248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。
計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、9代か10代の天皇の頃が、200~248年になるでしょうか。
この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。
神武天皇が、100年生きていても、天皇在位が100年ではありません。神武天皇が、20才の頃には、子供が生まれます。神武天皇が、40歳の時には、2代目は、20才になります。
20才で、天皇の位を引き継ぐとしますと、10代までの天皇の在位の合計は、200年になります。
神武天皇が生れた紀元前660年から、卑弥呼が亡くなった240年までは、900年あります。
先ほどの、20年で天皇の位を譲るとしますと、45代目の天皇が、200~248年頃に当たります。
別に、このようなことでも、いいのですが、魏志倭人伝に拠りますと、日本にあった国々は、邪馬台国だけではありません。天皇が、治める倭国以外に、20を超える国が日本にはあったことになります。
日本の歴史家は、魏志倭人伝も信じ、日本書紀も信じておられます。どちらかに書いてあることが間違っていると考えませんと、辻褄が合いません。
この辺りの矛盾を解き明かしておられる方は、WEBでは見当たりません。
魏志倭人伝に書いてあることを元にして、邪馬壹国が何所に有るかを書いてきました。、島根県の松江を末廬国と考えますと、魏志倭人伝に書いてある通りの、方角と距離の所に、全ての国が、収まります。
これほど、みごとに、一致するということは、魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことになります。即ち、日本書紀にかいてある 「在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)」は、嘘であることが判ります。
以前にも書いていますが、崇神天皇だけは、ほぼ、正確にいつ頃の人であるかが、判りますので、書いて見ます。
ダブりますが、
次のところにもかいています。
No115 崇神天皇は、紀元200年頃の人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20
邪馬壹国のことが書いてあるのは、中国の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)と書いてあります。
簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。
卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。
卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200~248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。
同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。
160年頃 - ~248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。
天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。
日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)とされています。
神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、
卑弥呼が女王をしていた200~248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。
計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、9代か10代の天皇の頃が、200~248年になるでしょうか。
この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。
神武天皇が、100年生きていても、天皇在位が100年ではありません。神武天皇が、20才の頃には、子供が生まれます。神武天皇が、40歳の時には、2代目は、20才になります。
20才で、天皇の位を引き継ぐとしますと、10代までの天皇の在位の合計は、200年になります。
神武天皇が生れた紀元前660年から、卑弥呼が亡くなった240年までは、900年あります。
先ほどの、20年で天皇の位を譲るとしますと、45代目の天皇が、200~248年頃に当たります。
別に、このようなことでも、いいのですが、魏志倭人伝に拠りますと、日本にあった国々は、邪馬台国だけではありません。天皇が、治める倭国以外に、20を超える国が日本にはあったことになります。
日本の歴史家は、魏志倭人伝も信じ、日本書紀も信じておられます。どちらかに書いてあることが間違っていると考えませんと、辻褄が合いません。
この辺りの矛盾を解き明かしておられる方は、WEBでは見当たりません。
魏志倭人伝に書いてあることを元にして、邪馬壹国が何所に有るかを書いてきました。、島根県の松江を末廬国と考えますと、魏志倭人伝に書いてある通りの、方角と距離の所に、全ての国が、収まります。
これほど、みごとに、一致するということは、魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことになります。即ち、日本書紀にかいてある 「在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)」は、嘘であることが判ります。
以前にも書いていますが、崇神天皇だけは、ほぼ、正確にいつ頃の人であるかが、判りますので、書いて見ます。
ダブりますが、
次のところにもかいています。
No115 崇神天皇は、紀元200年頃の人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20
2012-04-14 04:40
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