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歴史各論 三角縁神獣鏡(104)魏志倭人伝(55) 邪馬壹国は、何所に(51)邪馬壹国(10) [三角縁神獣鏡]

タイトルは、邪馬壹国(10)です。
 邪馬台国は、どこにあったか判らないのですが、九州の方は、九州にあったと思っておられます。関西の方は、奈良の桜井市にあるといわれている纏向遺跡がそうだろうと思っておられます。
 関西の方はと書きましたが、奈良の方はと書いた方が正しいかも知れません。次の文は、2012年4月5日の読売新聞の夕刊に掲載されたものです。

 【纒向研究拠点が開所】
邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を調査・研究する「桜井市纒向学研究センター」が同市東田(ひがいだ)で開所し、5日、式典が行われた。
同センターを拠点に発掘調査を進め、遺物の展示、大型建物跡の復元などを行う。
 大和王権発祥地の地ともされる同遺跡は3~4世紀の都市とされ、2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土。しかし調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロのうちまだ5%で、同センターは、調査範囲の拡大にも取り組む。

 新聞では、僅か、一行12字で17行の文章ですから、200字ほどの記事です。
他の新聞では、写真も掲載し、内容はもっと、多いです。読売新聞は、纒向遺跡が邪馬台国の有力候補地と記していますが、「桜井市纒向学研究センター」を設立された方は、間違いないと思われているのでしょう。
 その証拠となるものが、〔2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土〕ち記事には、書いてありますが、これは、卑弥呼が住んでいた建物、即ち、宮殿と思われています。

 この辺り一帯は、崇神天皇を挟んだ天皇の御陵があることになっていますが、これらは、全部証拠がないことになっていて、崇神天皇のお墓は、行燈山古墳 と呼ばれ、崇神天皇御陵と云ってはいけないことになっています。それどころか、崇神天皇は存在したらしいが、その前の9人の天皇は、作られた天皇であろうとなっています。

 いっぱい、御陵とか、資料がある天皇が、存在しなかったのに、魏志倭人伝に書いてある卑弥呼は、纒向遺跡に住んでいたことになり、そのことを立証するために、
今後、調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロの範囲の内、5%だけである。そこで、残る95%を発掘して、ここに、邪馬壹国があったことを立証しようとのことです。

 これは、此れでいいのですが、仮に、纒向遺跡のところが、邪馬壹国の中心地であったことが判ったとします。末廬国、不弥国、奴国、伊都国は、邪馬壹国より北にあることになりますから、立証するには、奈良中を掘りまくらなければなりません。

  どうして、このような発想で、「桜井市纒向学研究センター」の設立になるのか判りません。
 残っている資料を利用しようとしますと、余りにも、多くの天皇が生きておられた年数が多すぎるために、資料は当てにならない。そこで、考古学から解明しようと思われているのでしょうか。
 
 神武天皇から応神天皇辺りまでは、あまりにも、享年が高すぎます。 しかし、現在は、男性の最高齢が、115才になられたばかりです。
 医学の進んだ現在ですから、115才です納得できるかも知れません。今から2000年も前ですと、現在より早く死ぬように思われます。崇神天皇は、特に高齢すぎます。

年令のことは、横に置くこととして、「桜井市纒向学研究センター」の方は、邪馬壹国は、どれぐらいの広さだと考えておられるのでしょう。但馬国ぐらいの広さはあったのでしょうか。

この様なことを考えていますと、やはり、2~3世紀は、高齢者が多かったと説明しないことには、日本史は、益々謎が深まります。

今、考えているのですが、400字ぐらいの文章では書ききれないなと、外の事を書いています。

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