SSブログ

歴史各論 三角縁神獣鏡(105)魏志倭人伝(56) 邪馬壹国は、何所に(52)邪馬壹国(11) [三角縁神獣鏡]

現在より、古代の方が長生きをしていたのではないかと考えるようになったのは、最近です。しかし、10年ほど前に、江戸時代は意外と長生きをしていたのではないかと思うことがありました。
大阪の北に、豊能町があります。歴史に興味を持った時に、古文書読む会があり、いろいろ見る機会がありました。その中に、各家庭の人員構成・田畑の広さ・田畑の等級などが書いてあるものがあり、これは、面白いと思って、全部お借りしてコピーしました。
コピーの時間だけでも、相当かかりましたので、何時かは分析しようと思っていました。
先日、分析しようと思いましたが、どこに片づけたのか分かりません。

 と云う次第で、肝心の時に、役立ちません。
 
どうして、コピーする気になったかと云いますと、これは、税金を取り立てる時の、税務台帳の様なものでした。分析していませんから、なにも判っていませんが、殆どの家では、親子3代が生活していました。
あまり、自分たちの村からは、出ることは無かったのではないかと思いました。お米の取れ高だけが書いてあるのですが、何故か、生活が豊かであるように感じられました。
江戸時代の歴史の知識は、ゼロに近いのですが、何故か、江戸時代は、8代ぐらいから、次第に幕府の財政が駄目になったように理解していましたが、どのように悪くなっていったかは知りません。今の日本ではありませんが、国の収入よりも支出が多かったということでしょうか。
国の収入となりますと、当時は、鎖国をしていたようですから、税収が、国の収入の大半を占めていた筈です。と云うことは、次第に税収が減って来たと考えるかです。
どは、どうして、収入が減って来たかです。
このことは、現在の歴史家は解明しておられません。
稲作を中心にした生活は、紀元前からありました。直播であった農業の技術は次第に改良され、収穫は増えて行ったと思われます。なのに、どうして、コメの収穫は減ったのか。

このことを調べるのは、大変です。
私が、ここ12年、いろいろの所へ行き、見て聞いたところでは、江戸の最後頃には、全国的に、絹の生産が、半分ぐらい占めていたのではないかと想像しています。

絹の生産は、全国的でしたが、中でも関東は抜きんでていたのではと想像するだけです。記録がありません。(記録はありませんが、古墳が一杯あります) 千葉、群馬の人たちは、但馬に移動してきました。
従いまして、但馬は、稲作と絹の生産で、豊かな地域だったと思うのですが、享保元年(1716年)の野間村の年貢率は、7割5分です。 元文元年(1736)の年貢率は、7割9分です。
『和田山町の歴史 1』22ページには、元和4年(1618)から、起った百姓一揆のすべてが掲載されています。総数46件です。

日本中で、状態の悪かったのは、和田山町だけでしょうか。元和4年(1618)から150年後には、江戸幕府が崩壊します。 その後、僅かの間に、日本は、ロシア艦隊を打ち破ることになります。
 この間の歴史は、戦のことは語られていますが、経済の事は、誰も語っていません。

 紀元前後の人は、長命であったことを書こうと思いながら、又、別の事を書いてしまいました。
 話は、飛びますが、次回は、2月5日に放映された【天空の棚田に生きる】のことを書いて見ようと思います。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。