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歴史各論 東の高天原(1) [高天原]

前回、西の高天原と東の高天原のことを書くつもりでしたが、少し、テーマが大きいのとグチを書いていましたら、脱線して書かず終いでした。
長いこと、三角縁神獣鏡を中心に、歴史を眺めようとしてきましたが、一時中断して、「東の高天原」とは、どのようなものかを知ることによって、日本の歴史を探ってみようと考えています。

全国には、高天原と云われる所は、あちこちにあります。全部確かめたわけではありませんが、殆どは、古事記に書いてある「高天原」の事だと思われます。

 そんなことは無い、日本書紀にも書いてあると思われる方もおられるでしょう。確かに日本書紀にも「また一書 (第4)」の所に書いてあります。
 日本書紀を書いた人が考えたことは、「また一書 (第4)」のような形式で書いてある部分より前に書いてあります。「また一書」に書いてある事柄は、このような本がありましたという参考文献です。 この部分は、日本書紀の編集者の創作だと思われます。

 日本書紀を一度確かめてください。「また一書 (第4)」は、古事記にかいてある事柄のように思われますが、登場する神の名前が、古事記と全く違っています。だからと云って、古事記の事ではないとしますと、日本書紀には、参考文献として、古事記は一回も登場しないことになります。

 福岡県で見付かった戸籍関連の木簡は、尾崎前山遺跡に見られるようなミスは無い様に思われますが、文字で書いてあるから正しいとは限りません。書いてあることの判断を間違いますと、とんでも無い結論を導きだすことになります。

これまで、私は古事記に書いてあることは、正しくて、日本書紀に書いてあることは、間違っている部分が多いと考えてきました。
 実際は、この逆であるのが、現在の日本の歴史界のみならず、一般の常識です。日本書紀がただしいと思われています。

 古事記は正しいとは限りません。古事記に書いてあることは、太安万侶という人が、日本に伝えられていることは、このようなことですよと書いたものです。
 全体の流れは、日本の歴史と云うよりは、天皇家の歴史が書いてあるように思います。
天皇家と関係のある人物は、すべて書き残した資料集と考えていいでしょう。
 
 天皇家の血縁関係ばかりだと思っていましたが、太安万侶は、天皇家の支配した土地の事も書いたのではないかと、考えました。これが「その新しい発想のことを書きます」の事です。

太安万侶は、最初に、天皇家の子孫等が、建国を試みた場所の事を「高天原」と名付けて、書き出しています。そして、どのように、次々と制覇して行ったかを、「国生み」の形で書き残しました。
 ところが、「高天原」はどこにあったかと云いますと、九州の日向にあった、四国にあった、奈良県にあった、滋賀県にあった  数えきれないほどあるそうです。

 どこにあったとしても、誰に迷惑がかかるわけではありませんから、どうでもいいのですが、東の高天原があったと考えられた人が居られるのです。

 次回は、引き続き、聞きなれない「東の高天原」の事を書きます。

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