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東の高天原(10) 西の高天原(3)磐田原台地  歴史各論 [高天原]

東の高天原は、どの辺りだったか。
 磐田市は、天竜川の河口近くにあります。その東の方に、愛鷹山麓、箱根山麓、その先に行きますと、伊豆半島になります。
 この辺りにあったのではと推理しています。
 天皇家は、ヒルゼン高原に居ましたが、次第に、中国系の人々の勢力が強くなりましたので、イザナギは、一番頼りになる天照大御神・須佐之男命・月読命に高天原を託して、滋賀県の近江八幡に出かけました。
 その留守に、須佐之男命は、天高原を乗っ取ろうと、馬を使って攻め込んだことが、古事記に書かれています。須佐之男命はお別れに来ただけだと言い訳をしますが、聞き入れられず、追放になります。
 由良川を遡って、侵略をしようとする勢力が増えてきましたので、天照大御神が、大江町の皇大神社の所へ、拠点を構えます。 天座という地名で残っています。
 当初は、天照大御神は、ヒルゼンの高天原と天座を行き来していましたが、西へ侵攻する勢力を抑えるために、川が狭くなっている夜久野町へ、月読命を派遣します。
 ところが、天照大御神の孫の彦火明命(古事記では天火明命)が、中国人の人たちと仲間になりました。このことは、記紀には書いてありませんが、籠神社の由緒に書いてあります。
 其の為に、天照大御神は、高天原を引き払う決心をします。
 孫には、天火明命と瓊々杵命がいましたが、天火明命は、籠神社に降臨したことになります。ここは、吉野ヶ里の人たちと仲間だったと考えています。
 この時は、瓊々杵命は、赤ちゃんでしたが、鳥取県の高千穂に降臨し、成人になり、コノハナサクヤヒメと結婚をします。
 情勢は、益々、悪くなり、瓊々杵命は、九州に派遣されます。后のコノハナサクヤヒメは、父親の大山祇命と姉と一緒に東の高天原へ派遣されます。
 どうして、そのように考えるかと云いますと、九州には、瓊々杵命を祀った神社が有ります。一方、東の高天原には、コノハナサクヤヒメが祀られています。
 コノハナサクヤヒメが一人でやって来ても、戦は出来ません。多くの部下が一緒にやって来て、征伐した後も、其の地に残り、神社をたてて、瓊々杵命を祀ったと思われます。

 西の高天原は、割合簡単に征伐できたと思われますが、東の高天原は、相当難儀をしたのではないかと想像しています。
 その結果として、磐田原台地に多くの古墳が出現することとなりました。

 始めに書きました、愛鷹山麓、箱根山麓、伊豆半島は、コノハナサクヤヒメが祀られていたことを見て頂こうと、現在、【歴史の不思議】
http://www21.atpages.jp/skeikas/ の「浅間神社」に集めている所です。
もう少し、集った所で、見て頂こうと思っています。
 
 その前に、天皇家と張り合っていた人たちが住んでいた磐田原台地を見て頂こうと思っています。でも、磐田原台地には、本当に、多くの中国人が住んでいた証拠が見付かるかどうかです。
 
 この近くにあった式内社の数を確認して置いて下さい。

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コメント 1

職務履歴書

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
by 職務履歴書 (2012-07-17 10:41) 

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