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東の高天原(12) 西の高天原(5)磐田原台地(3) 高地性集落 歴史各論 [高天原]

前回、『日本の古代遺跡』1 静岡 保育社 
昭和57年11月1日 発行 (1982年) 
 に書いてあることをそのまま、文章にしました。

 152ページに、「高地性集落」のことが書いてあるので、そのまま、転記します。

 弥生時代後期になると、沖積地にのぞむ丘陵上にも集落がいとなまれるようになる。一般に高地性集落と呼称される遺跡である。
 天王山遺跡(掛川市下西郷)、城之崎遺跡(磐田市城之崎)、一色前田遺跡(袋井市一色)などがその代表的な例である。県東部においては数十戸の竪穴住居から構成される高地性集落もあるが、大田川水系ではそのような大規模な遺跡は現在明らかではない。これらの遺跡はいずれも舌状にのびた丘陵の端部近くに集落をいとなんでおり、天王山遺跡では六戸、
城之崎遺跡では七戸、一色前田遺跡では四戸の住居により構成されていた。沖積地において集落が増加してゆく弥生時代後期に、いっぽうではこうした丘陵上に小規模の集落がいとなまれる背景は何であろうか。
 大田川水系における高地性集落の出現の契機が、弥生時代後期の農耕社会にあることは明かである。いっぽう前章で述べた倭国の大乱の存在を、この小規模な遺跡から類推することは困難であるが、沖積地の水田免との比高が十五―-二十メートル以上あるこれら高地性集落の性格を、沖積地に立地する集落遺跡と対照させて判断することもまた可能である。筆者は高地性集落を、地域社会における水利権や耕作地の確保をめぐっての政治的緊張がうみだした遺跡とみておく。しかし最近では、そうした高地性集落直下の谷あいを谷水田として開墾するためにいとなまれた村集落と考える説もあり、今後なお検討されるべき問題である。

 これで、高地性集落に関する文章は全てです。
私のだらだらとした文章と違って、磐田原台地の近くの様子を、簡潔に、すべてを書いておられます。
 みなさんは、この文章を読まれて、なにを考えられましたか。

このような話は、読んだのははじめてだ。 どうして、掛川市、磐田市、袋井市の各市に、高地性集落に一つずつなのか。広範囲で、連携して防衛をしていたのだろうか。
 いっぱい考えることができます。  次回まで、少し、時間を置きますので、考えてください。

 できれば、この地域のみなさんに考えて頂ければと思います。

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