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東の高天原(13) 西の高天原(6)磐田原台地(4) 高地性集落(2) 歴史各論 [高天原]

前回は、磐田原台地一帯にある高地性集落の紹介をしました。
 『日本の古代遺跡』1 静岡 に書いてある文章を読んで考えたことを書いて見ます。

①天王山遺跡では、6戸が有りました。この様子が、図示されています。6戸は全て、尾根にあります。その内、2つは、一番高い所に設置されています。6つとも、中心に柱の穴があり、周りには、4本の柱跡があります。大きさが書いてありませんが、柱の数から、4人ぐらいは住んでいたでしょうか。合計、24人という事になります。この人数ですと、見張りだけではなく、防衛の任務もできたかもしれません。
 気になる所は、
 「県東部においては数十戸の竪穴住居から構成される高地性集落もあるが、大田川水系ではそのような大規模な遺跡は現在明らかではなる」の部分です。
県東部とは、現在のブログのテーマである「東の高天原」があった所ではないかと考えています。
高地性集落の分布は、紀元前1世紀~紀元2世紀と紀元後弥生時代の終りかけの2回に分けて、ピークがあったことを述べておられる方が多いです。しかし、高地性集落はどのような目的で造られたかは、現在でも、判っていません。
そこで、この高地性集落は、紀元前のものは、苗族の人が、紀元前に大量に日本に移住してきたために、中国人の人から防衛するために、築いていったのではないかと、考えています。
静岡の場合は、東の高天原の人たちは、戦争が苦手だった人の遺跡で、人海戦術で、数十戸の竪穴住居で対処していたのではと、一方、磐田原台地の天王山遺跡の人たちは、紀元前後の頃に移住して来たのではないかと考えます。大陸の人ですから、武器は持っていましたから、苗族人より、少ない人数で、対処できたと考えています。
 はっきりしているのは、三角縁神獣鏡が出土した磐田市の新豊院山D2号墳は、日本でつくられた魏鏡の可能性が高いですから、250年前後に、此の地に住んでいたとみています。
 内行花文鏡などの出土した古墳の主は、それより以前に、この地にやって来たと考えていますが、古墳時代は、始まりは、3世紀が歴史界の常識になっていますから、この説は、少し、困っています。

② 『日本の古代遺跡』の筆者は、次の様に断定しておられます。 「大田川水系における高地性集落の出現の契機が、弥生時代後期の農耕社会にあることは明かである」

 しかし、観察は鋭く、「倭国の大乱の存在」のことを書いておられます。静岡だけに限りますと、筆者が云われるとおりですが、高地性集落が全国的に分布していることから魏の国がやって来て、日本から絹を収奪するには、相当、苗族の人の抵抗を受けたと推理しています。苗族の人が、魏や後漢の皇帝にたてついたので、「大乱」です。日本人同士が、争ったからと云って、中国の国書に書き記す訳がありません。
高地性集落の言葉が入る記事は、沢山書きました。 その内、5つを集めて置きました。古いことですので、間違ったことが一杯かいているかも知れません。私が、高地性集落とは、どのようなものであるかを考えた課程が解るのではと思っています。読んでください。

【高地性集落】 http://www21.atpages.jp/skeikas/page271.html
 【倭漢戦争だった倭国大乱】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-28

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歴史の不思議】  の中の浅間神社一覧のところをご覧ください。磐田市にある浅間神社をご覧ください。 この辺りも、東の高天原 だったのではと考えています。

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