SSブログ

東の高天原(14) 西の高天原(7)磐田原台地(5) 浅間神社 歴史各論 [高天原]

前回、【歴史の不思議】 http://www21.atpages.jp/skeikas/ の中の浅間神社一覧のところをご覧ください、と書きました。
 ごらんの通り、まだ、未完成です。従いまして、これまでの資料だけで、結論を出すのは無理ですが、余りにも数字に差がありますので、敢えて、結論らしきものを書いてみようかと思います。

 このブログでは、「東の高天原」と云えるようなものが、静岡県にあったのではという推理を正しいかどうか確かめています。
 「東の高天原」を取り仕切っていた人は、木花之佐久夜毘売と 大山津見神ではないかと考えています。
 木花之佐久夜毘売は瓊瓊芸能命の后です。大山津見神は木花之佐久夜毘売の父親です。

 瓊瓊芸能命が高千穂に天孫降臨した時は、幼子でしたが、成人に達し、木花之佐久夜毘売と結婚します。そして、鳥取県の宮内(西伯郡)に宮城を定めました。 この頃は、中国人の勢力が、全国的に広がることとなり、瓊瓊芸能命は、「西の高天原」を拠点として、征伐に向かいます。大山津見神と木花之佐久夜毘売は、自分達が、諏訪方面からの絹を天竜川を使って、運んでいましたので、磐田市、袋井市、掛川市にまず、農民を入植させたと考えています。その証拠として、「田」の字が付く地名が多いです。
 そんな馬鹿なと思われるでしょう
 日本中の地名を全部調べてください。3000万はあるそうです。無理だと思われましたら、
 天竜側の東側にある「田」の字が付く地名を書き出してください。
 次に、天竜川の西側を確認してください。
 西側はみごとにありません。このようなことは、どうすれば、なるかと云いますと、人為的に、天竜側の東側に人を入植させませんとなりません。
 入植の目的は、戦ですから、戦うためになにをすれば良いかと、順番に考えれば良いことになります。
 古代においては、新しいところに進出するには、兵隊と食糧確保が一番大切です。兵隊と食糧確保の中でも、米はお米が一番です。焚いて乾燥することによって、水を加えるだけで、利用できるからです。その為には、所謂、屯田兵を入植させることから、始まります。
 まだ、戦争という段階ではありませんが、相手の動向を知る必要があります。

 それが、前回、書いておきました高地性集落です。紀元前の高地性集落は、苗族の人たちの集落です。握って投げるのにいいような石が出土していると考えます。これから、確認することになります。
 紀元後の高地性集落には、簡単な武器に当たるものがあったのではないかと想像しています。

 瓊瓊芸能命は天照大御神の孫ですから、時代は、紀元前100年頃になるでしょうか。

 従いまして、天竜川の近くには、浅間神社が多い筈ですが、
【歴史の不思議】 http://www21.atpages.jp/skeikas/page260.html
の中の浅間神社一覧の磐田市、袋井市、掛川市をご覧ください。神社は少ないです。掛川市から東は、しばらく、山が続きます。この三市一帯は、其の後、入植した中国人に代わられてしまったと推理しています。

 それが確定したのは、大化の改新の645年以後になります。

 磐田市の市役所の近くに、国分寺跡があります。740年頃には、遠近国の中心地であった所に、国分寺が建てられたことになります。
 次回は、国分寺のことを書きます。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。