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東の高天原(15) 西の高天原(8)磐田原台地(6) 国分寺 歴史各論 [高天原]

遠近国分寺は磐田市役所の近くにあります。
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/tayori/0511.php
 これまでに、国分寺跡が判っている所は、できるだけ、立ち寄るようにしてきました。
 国府は、国の真ん中に位置していたように思います。国分寺は、国府より少しはなれていることが多かったように記憶しますが、中央だったと思います。
 大阪府の柏原市にある国分寺は、国全体が狭いことはありますが、国分寺は、高い所にありました。塔跡は残っています。
 写真 http://komatsu0513.heteml.jp/kawachi.html

次の磐田とのブログに、次の文章が有ります。
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/bun09.php

「天平13年(741年)、諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建立が始まりました」どの国分寺の記事には、同じようなことが書いてありますが、本当でしょうか。

【大和東大寺東塔・西塔】の事は、次の所に掲載されています。
 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_todaiji.htm
 
天平勝宝4年(752)塔身の工事完了、天平宝宇6年(762)歩廊工事
天平宝宇8年(764)東塔露盤を上げる、西塔の竣工もこの頃か?

 その後、何度も、火災に遭い、再建されていますが、現在は、両塔ともみることは出来ません。741年の詔が有ってから、完成までに、20年程かかっています。他の国も、塔は七重の塔ですから、同じくらい年数は掛ったと思います。
 全国に一つぐらい残っていてもよさそうですが、すべて、火災で焼失したのでしょうか。
奈良の大官大寺は、九重塔だったとされていますが、完成して、使用されない内に倒壊(?)
と云われています。五重塔は倒れたのはなくて、すべて焼失とされています。七重、九重塔は、技術的に難かしものであったのでしょうか。
 
 長々とわけの判らないことを書いてきましたが、納得いかないことが有ります。これらの国分寺が、全国一斉に建築することが可能だったのでしょうか。

 可能だったことにします。
 この頃より、200年前は、前方後円墳が造られなくなり、盛んに円墳が造られるようになります。円墳と云っても、巨大な石が使用されています。しかし、お墓の中に、収められている土器なのが、お粗末すぎます。たまに、そこに書かれている絵が残っていますと、話題になっていますが、現在の三歳児のほうがマシ苗を書きます。
 このように考えてきますと、古墳時代は、100年も200年も遡らせませんと、おかしなことになると思います。

 何を言いたいのかと云いますと、磐田の地に、国分寺を建てたのは、日本人ではなくて、中国人だったのではないかという事です。

 こんなことが認められますと、日本中の国分寺を建てたのは、中国人という事になります。
 国分寺を建てたのは聖武天皇という事になっていますが、笑話ではないが、建てたのは、中国人の大工さんという事になります。しかし、建物の資材などを用意したのは、各国の国司という事になります。  
 どの国の国司が、中国人であったかは、古事記に書いてあります。

磐田市の場合は、古墳や高地性集落、其の他諸々の事から、遠近国の国司は、中国人だったと思われます。

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