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東の高天原(16) 西の高天原(9)磐田原台地(7) 国分寺(2) 歴史各論 [高天原]

このような調子で書いていますと、切がないのですが・・・・・、 磐田市では、紀元前から、中国人と天皇家の人たちが、凌ぎを削っていたのではと想像しています。 

 その影響は、壬申の乱の時にもあったのではないか。

 簡単に記しますと 大海人皇子と 大友皇子を取り巻く中国人の争いだと考えています。
 追手の危険を感じた大海人皇子は、吉野を出立する時は、女子と家来を含めて、わずか20人ほどの人数でした。それが、伊賀を通り桑名まで逃げて来た時には、3000人ほどの援軍が有りました。この人数では、大津朝廷の正規軍に勝つことは不可能ですが、結果は、大海人皇子の勝利に終りました。
 戦争とは、戦う軍隊だけが大切なのではなく、相手の援軍を釘付けにすることも大切です。
 この頃、飛騨は天皇勢力の強かった国だったと考えています。
 この考えの元になるものは、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.htmlにある式内社の少なさです。一国において式内社が少ないところは、天皇の勢力がつよかったところと考えています。

 磐田市という場所は、中国人と天皇家は、お互いに譲ることが出来ない場所でしたから、戦で死者が増え、古墳がたくさん残ることになりました。従いまして、磐田市の中国人は、壬申の乱のとき、援軍を出動できませんでした。後ろに天皇家の人が控えているだけではなく、浜松市あたりは、銅鐸の出土が多く、この地は、イザナギの子孫の勢力が強い所だと考えています。 磐田市の中国人は、前も後ろも天皇家の人に挟まれていました。 本当は、逆で、瓊々杵命が、苗族の人を天竜川の東側に入植させたのだと考えています。
 
 中国人は、天武天皇には、負けてしまいましたが、持統天皇の頃には、朝廷の力が無くなります。
 国分寺の建設は、聖武天皇の詔によって、始められたと云われていますが、何かの間違いではないでしょうか。
 全国に国分寺を造るという事は、国力が無ければできません。
聖武天皇は、都を恭仁宮遷そうとされます。
天平14年(742)8/27 には、聖武天皇は、近江国信楽(紫香楽)宮に行幸。
 紫香楽に遷都しようとされています。ほかにも、奇怪な行動がいっぱいです。

 恭仁宮跡も 紫香楽趾も行ってきました。どちらも狭くて、こんな所に、都を本当に造くろうとされたかどうか、疑問に思っています。

 聖武天皇が居られる宮城は、まわりは、中国人ばかりで、不安が一杯だったのではないでしょうか。そのようなときに、全国の中国人の拠点に、国分寺を建てるような詔を出されたのでしょうか。
 では、遠近国の国分寺はどのようなものであったかを知りたいのですが、
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/tayori/0511.php しか資料が有りません。
 次回は、遠近国分寺の代りにはなりませんが、美濃国分寺を見て頂こうと思っています。

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