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東の高天原(21) 西の高天原(14)磐田原台地(12) 国分寺(7) 歴史各論 [高天原]

故此後所生五柱子之中。天菩比命之子。建比良鳥命【此出雲國造。无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直。遠江國造等之祖也】
 理解していただけたでしょうか。

 遠江國造は中国人でしたから、国分寺を造るときは、広々した所に、造ったのではないかと想像しました。遠江國の国分寺の礎石は残っていますから、どれほどの大きさの建物があったことは推理できます。
 私の納得できないのは、いくら国造が中国人であっても、天皇の命令より大きなものは造ることは出来なかったのではないかと思います。財力さえあれば、作ることが許されるのではあれば、東の高天原の人たちとの対抗上、つくったのではと推理しています。

 どうして、そのように思うのかと云いますと、遠江國の国分寺の廻りに、住民が住んでいた遺跡が、報告されていません。人間がいなくては、お寺は意味がないと思うのですが、磐田市だけで、900に達する古墳が発掘されています。その古墳は、一般の人の古墳ではないでしょう。住民がいないのに、古墳ばかりが有るというのは、おかしなものです。人は住んでいたのでしょう。 自分たちの勢力を誇示するには、実力以上のお墓も、国分寺も必要だったのではないでしょうか。

 このように国分寺を見てきますと、不思議なことに気が付きます。現在、国分寺で残っているのは、いくつあるのでしょうか。
 奈良の東大寺は知っていますが、他の国分寺は、調べたことが有りません。
 国分寺は、多すぎて、調べるには、私の寿命が足りません。

 国造が中国人だったから、スケールの大きい国分寺を造ったのではと考えました。逆に、小さい国分寺は、同であるかぐらいは、調べることが出来るのではと思います。

 次回は、小さい国分寺について考えて見ます。

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