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東の高天原(22) 西の高天原(15)磐田原台地(13) 国分寺(8) 歴史各論 [高天原]

国分寺と東の高天原とは直接関係ありませんが、太安万侶が古事記を書いた712年頃の遠江國造は、天菩比命之子の建比良鳥命の子孫ですよ、書き残したという事は、磐田市は、中国人で一杯だったことを示していると思います。
 しかし、磐田市には、現在でも、三つの浅間神社が有りますから、
浅間神社 http://www21.atpages.jp/skeikas/page260.html

 戦争ばかりしていたのではないことが判ります。
 この様に考えますと、古代史から、歴史を考えるのは無理であることが判ります。近代史までの流れを、民族史・民俗史も含めて 調べ直す必要がありそうです。

 乗りかかった船ですから、小さい国分寺について書いて見ます。
 一つは、大阪府柏原市の国分寺です。ここは、河内国分寺です。
柏原市は、大阪の人でも、どのような町であるか知らない人が多いと思います。河内という言葉は比較的耳にされると思いますが、大阪のどの辺りだと聞かれると大阪の人でも、答えることが出来る人は、少ないと思います。北河内・中河内、南河内に住んでいる方は、知っておられます。
 では、先ず、河内国はどこだから説明します。昔使われていた北河内、中河内、南河内を現在の町に当てはめますと、次の様になります。 これで、大阪府のかたですと、ああ、そうかと大体わかります。
• 北河内 - 枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市
• 中河内 - 東大阪市、八尾市、柏原市
• 南河内 - 松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、
南河内郡太子町・河南町・千早赤阪村

 少し、上記に漏れている町もありますが、凡そ、上記のとおりです。
ところが、当初は、上記の部分より、南も河内国でしたが、『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が生れました。その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
 
 如何ですか。どうして、大きかった河内国が分割されたと思われますか。和泉国が設置されたのが、740年。諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出されたのが、天平13年(741年)です。
 一年違いですから、国分寺と国分尼寺の建設と、国の分割は関係あったと見なければなりません。
 国分寺は、多くは、国府の近くに造られたと思われます。

上記の河内国を現在の地図で確かめてください。
河内の国府は、どこにあったか判っていません。和名抄によると河内国の国府は志紀郡にあったとあります。古代の志紀郡に属する藤井寺市の允恭天皇陵の東側に国府という地名があり、その北側に惣社という地名と、神社が有りますから、河内国府も、おそらくこの地に置かれたであろうと想像できますが、まだ国府に関係した遺構、遺跡は発掘されていません。

 この国府(こうふ)が、河内の国府としますと、国分寺は、4キロほど離れた所(柏原市)に在りますから、普通のパターンではありません。

 国分寺のことは、是だけしか判りません。 新しくできた和泉国は、全く調べていませんが、和泉国にある式内社をしますと、最新が、天皇家に関係ある祭神が祀られていますから、天皇の勢力が強いので、分離したのではと推理しています。
 http://www21.atpages.jp/skeikas/page006.html を開いて、和泉をクリックしてください。

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