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東の高天原(24) 西の高天原(17)磐田原台地(15) 国分寺(10) 歴史各論 [高天原]

今回は、但馬です。生意気のようですが、歴史を勉強するには、その場所の位置と地形と地名が、頭の中に入っていませんと、歴史は見えてきません。
地図閲覧サービスが便利です。
http://watchizu.gsi.go.jp/index.aspx?mesh=0000

地域を選択―-〔宮津〕---左の三角をクリック---〔江原〕で、地図が表示されます。マウスの真ん中のボタンを回転させて、地図を縮小させますと、左下方向に、国分寺趾が見えます。右上の方に、府中新の地名が見えます。 確定はしていませんが、この辺りが、国府のあった所と思われます。もう少し、上に移動しますと、JR国府駅が見えます。
 移動するには、左ボタンを押して、そのまま地図を上に移動。

 この地図では、残念ながら、その土地の標高は、知ることは出来ませんが、JRの国府あたりは、標高8m、江原駅あたりは、20mです。これぐらいですと、住むことが出来そうですが、その近くの円山川の標高は、4m以下です。豊岡市街辺りは、0mです。
 4m以下の所は、紀元元年の頃は、全国どこでも、海だったところです。

 地盤が沈下したり、隆起したりしていますから、正確には、その土地で、縄文時代の遺跡があれば、人は住んでいたことになります。貝塚が有れば、そこは、海岸線になります。

 国府と国分寺は離れすぎているように思われます。国府の地名は残っていますが、遺跡は見付かっていません。という事は、国府はJRの国府駅より、西の方にあったのではないでしょうか。物の移動は、やはり、川が中心になりますから、府中市場の地名のところが、市場の中心だったのではと推理しています。
 ついでに、円山川に沿って、移動しますと、但馬は、〔市場〕がいっぱいです。但馬牛の市場だと云われる方が居られますが、私は、〔絹の市場〕だったと考えています。
〔府中新〕は、時代が新しくなってから、市場の位置が、ここへ移動したのではないでしょうか。市場自体が新しい言葉のように思われますから、江戸時代に付けられた地名に思われます。古い古文書に市場が残っているかどうかです。

国分寺が建設されたのは、700年前後の事ですから、一度は、国分寺は、国府の近くに建設されたでしょうが、流されたことは想像されます。そして、江原の地に、国分寺が移されたと推理しています。
 江原の東に、〔日置〕が有ります。江原から日置に行くには、円山川を渡りますが、土手が高くなっています。この辺りの標高は9mですが、何度も、円山川が決壊した証拠だと思います。
 国分寺の辺りは、標高が20mほどですから、浸水はなかったと思いますが、円山川の決壊は、常にあった所だと思います。

 歴史は、地形と地名だけでは、駄目であることが判ります。土手が高い、即ち、天井川になっています。現地に行けば、直ぐに分ります。
 私は、全国の日置地名が気になりますので、集落に向かいました。式内社が古くて役に立ちます。
 神社の入り口にありました倉庫の壁に、最近の浸水した時の水位が、マークされていました。2mはあったでしょうか。 日置神社は、勿論、高い位置に造られていました。

 日置は 天皇家の軍隊が駐留していた所ではないかと思っていますが、それにしても、日置は広大です。 地図で確認してください。

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