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東の高天原(25) 西の高天原(18)磐田原台地(16) 国分寺(11) 歴史各論 [高天原]

東の高天原(23)において、和泉国の事を書きました。ついでに、和泉国の国分寺のことも書いておきます。
 再度、記します。
当初は、上記の部分より、南も河内国でしたが、『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が生れました。その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
 
 如何ですか。どうして、大きかった河内国が分割されたと思われますか。和泉国が設置されたのが、740年。諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出されたのが、天平13年(741年)です。
 一年違いですから、国分寺と国分尼寺の建設と、国の分割は関係あったと見なければなりません。
 
 よく読みますと、
霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が生れました。その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
 この部分は、書いてあることは正しいと考えていい様な気がします。

 716年3月27日に、河内国から和泉郡・日根郡を割き、和泉監が生れ、僅か、17日後の
716年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監が生れました のであれば、まとめて、
716年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監が生れましたと書けばいいのに、『続日本紀』の執筆者は、拘って、日付を分けて書きました。書いておかなければならなかったと想像します。その理由が分りません。
 『日本書紀』は、何度も読んでいますが、『続日本紀』は読んだことが有りません。『続日本紀』は、『日本書紀』の続きでしょうか。例えば、メンバーは入れ替えはありましたが、一番の大御所である藤原不比等は、『日本書紀』が完成した721年に同時に死亡しています。

 <716年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監が生れました> の決定は、藤原不比等は、関与できたのでしょうか。
 その後、『続日本紀』は、次の様に書いています。
天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
716年から740年までは、24年の歳月が有りますが、元の河内国になりました。
757年5月8日に再び、和泉国が生れました。
 
 記事は、本来の目的と離れていますが、次回、もう少し、書いて見ようと思います。


参考に
大鳥郡 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E9%83%A1

和泉監の構成要素
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/2006/data/pdf_zasshi04/01endo.pdf

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