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稲作は記元前4世紀に普及した   36  -68- [真説 建国史]

銅鐸は静岡からは特に多く出土した。この静岡の登呂遺跡は現在でも弥生後期の記元300年頃わたし達先祖の生活状況の例にあげられている。この登呂遺跡に水田が見付かったが、水田の杭がカーボン14での測定の結果記元前350年頃と分った。
 実に650年も年代が狂って教えられているのだ。この近くからも銅鐸が出土していたので水田を営んでいたのは、白狄人と考えてよい。九州の板付遺蹟でも縄文と弥生土器が混じった中間層の更に下の層に水田があって足跡までも現われた。ここにも銅鐸が出土し稲作で生活が豊かになって、銅鐸をたたいて盆踊りをしたことだろう。稲作は西日本では一斉に紀元前4世紀に普及したと考えたい。
 中山王国は四国位の大きさだから、全員が渡来して西日本全域に分布して丁度よかった。何れ神武東征の時に追われて、稲作があまり適しない関東、東北に全員移動して行ったと考えてよい。改めて祖先のイザナギ(ミ)命を祀ったことだろう。従ってこの地域の稲作は300年遅れて普及したと考えたい。


私からのコメント
 650年も年代が狂って教えられているのだ

この文章は、私のように、75歳を過ぎた人が、聞かれますと、ご自分の歴史を変える事が出来ないと思います。

7月1日、高槻市の今城塚古墳に行ってきました。
 これでまでで、4回目です。 
 最近のウィキペディアには、次のように書いてあります。
 
古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。

この古墳は、継体天皇の陵墓だとしますと、 直ぐ近くにある太田茶臼山古墳は誰のお墓なのでしょう。

私は、今城塚古墳が520年頃の御陵だとしますと、紀元前後あたりが、やっと、稲作が始まった頃になります。 稲作の前は、食べるものもありませんから、人口が少なかったと思います。
 少ない人口であれば、あのような大きなお墓を造る必要はありません。

今城塚古墳の資料館では、新しいことが見つかり、少し、考えを変えられたかと思いましたが、発掘された時と、同じ考えでした。

田村氏の「稲作は西日本では一斉に紀元前4世紀に普及したと考えたい」が正しいとしますと、近くに大きな古墳ができた理由は簡単です。

初代の神武天皇が、神武東征を終えて、奈良の柏原に宮城を造ったのが、西暦元年1月1日です。 この日はユダヤ人が、西暦元年として使っていた日です。 神武天皇は九州の吉野ヶ里の人達を征伐してから、16年間も闘って、奈良に都を定めました。 しかし、その後は、大陸から進出する人達との戦いであったことになります。 本当は、その前から、多くの人達が、日本へやってきたことにしませんと、日本の歴史は、説明が付きません。


一つは、継体天皇の御陵で、もう一つの今城塚古墳は、それを倒した中国人の墓でしょう。

古い歴史が入った高齢者には、納得できないページですが、正しいような気がします。






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