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「霧の中で吹いた口笛のカケ」  その2 [真説 建国史]

 今日は、次の話題の「天の石屋事件」を書くつもりでしたが、10日~11日に大津京のことを調べる為に、大津市に行ってきました。

その為に、こちらの準備が出来ていませんので、口笛のカケのことを書いてみます。

「霧の中で吹いた口笛のカケ」の事は、自分で、みなさんに知って頂こうと思いながら、書いたのですが、解らない点があるのです。

どこが解らないかと云いますと、太安万侶は、この序文を書く事によって、読んだ人に、どのような事を伝えたかったのかを知ることに重点を置いて考えました。

古事記には、神話が書いてあると考えておられる方は、日本の歴史を取り違えておられると考えています。

何故かといいますと、この部分は、天武天皇が、このままでは、天皇家は滅びてしまうと喋られたときの叫びを序文にハッキリと書いていると思います。

太安万侶の決意は、古事記の序文に書く事によって、始めに宣言したのだと思っています。

この部分をご自分で翻訳してください。もし、翻訳出来ない人は、専門家が翻訳された本を読んで下さい。
私の勉強不足かも知れませんが、読んだ本で、一番、真正面から取り組まれた本と思える本が有ります。

中西 進著 『古事記を読む』全四冊です。
この本は、阿保みたいに、古事記、古事記と云っている私の為に、大学時代の友人が、買って送ってくれたものです。一冊が、300ページ近くある本ですから、四冊で1200ページになるものです。

折角、高価な本を買って送って頂きましたが、一冊目の途中まで読んだだけです。
どうしてかと云いますと、序文の部分を二回読みましたが、意味が解らないのです。本当は、四冊読めば、序文の意味が解ると思ったのですが、この部分が解らなかったのでは、古事記全体の意味も分らないだろうと判断して、そのままにしています。

そこで、他の人はどの様に翻訳されているかと思って、いろいろ探しましたが、一冊もありませんでした。辛うじて、田村誠一氏が、翻訳されていただけです。

この序文は、太安万侶が書いたものではなくて、他の人が書いたものは、確かなので、古事記のその後の本文は、古事記は、日本の歴史を混乱させる為に、書かれた偽書であることを書いて居られる方が有りました。

書物の価値を発行された本のページ数で判断するのは間違っていますが、序文を翻訳された方がおられないと云うことは、古事記のことを解って居られる方が、ゼロと考えていいのではと思います。

問題の「霧の中で吹いた口笛のカケ」の部分は、大野安麻呂が、読者に伝えるために書いた中でも、力を込めて書いたのではないでしょうか。

これを理解出来る人は、ヒルゼン高原に住んで居られて、霧とはどのようなものであるかを知っている方のみ判るのではと思っています。

さて、話題は、始めの私が大津京をもとめて、歩いてきた古都の事を書きます。

一日目は、前回おとずれました百穴古墳をもう一度行って、倍の古墳を見ることに集中しました。 そして、その先にある祟福寺跡に行ってきました。このことは、まだ、頭の整理がついていませんが、お寺は、随分高い所にありました。一つ目の遺跡に到達する前に、しんどくて、最後の20段程の階段を前にして、一歩も歩けなくなりました。
しばらく、休んで頑張って、上った所、大きな柱跡がある遺蹟に到達しました。遺跡を見るより先に、腰を降ろして、回復を待ちました。
遺跡は、三つの尾根に分散してありました。

下山して、前回訪問時に、どうしても三つから無かった桐畑遺蹟に再度、挑戦です。 しかし、歩きましたが、見付かりませんでした。
諦めかけていました所、煙が見えましたので、近づきましたら、農作業されている方がおられ、お話を聞きましたら、その場所から50メートル程の所に、、桐畑古墳が有りました。この桐畑は、地名許思っていました所、その方のお名前が、遺蹟に使われたとお話をお聞きしました。 遺跡の名前に、個人のお名前が付けられた例は、余りないそうです。

2日目は、1日目の済ませたために、予定のコースが少なかったので、予定に無かった近江神宮に行きました。 
この神社は、新しい神社ですので、豪華な割には、わたしには、あまり、興味がなかったのですが、行く道中、地名の表示が目に入ります。 「錦織三丁目」です。三丁目は興味ないのですが、 「錦織二丁目」に大津宮の遺跡が見つかっています。
随分前に、その報告が、新聞に載った時に、見に行きました。 難儀して見付けた所は、発掘が終わり、埋め戻されていました。 一軒分の民家の跡が有っただけでした。

 その後、発掘が進み、整備されて公開されていると云うので、行きたかったところです。
「錦織三丁目」の隣りが二丁目ですから、琵琶湖の方向、東に向かって歩きました。大きな滋賀県の地図しかもっていませんでしたので、大津京は、琵琶湖と一帯になってあった筈だと・・・・。ずっと、続く坂道をどんどん歩きましたが、旧の161号線まで行きましたが、「錦織二丁目」は在りません。

 スマホを2台もって居られるお若い三人家族にお会いしましたが、ご存じありませんでしたが、検索して下さいまして、「神宮前」の駅の近くに二丁目があることを見つけて貰いました。

直ぐに、「錦織二丁目」は見付かりましたが、広い町で、大変でした。 京阪電車の駅の西ですが、京阪電車の線路が邪魔をして居り、結局二丁目全町を歩く事によって、遺蹟に辿りつきました。

この歩きまわるのが良かったのですね。 近江神宮から湖岸まで続く町は、延々と続く坂の中にありました。
遺蹟のある町名は、書いてはいけないのか、ネットでは見ることが出来ませんでしたが、自動車で行けば、狭い道の住宅地の中にありますから、電車で「神宮前」で下車されて、北に2分も歩かれますと、8番目の遺跡が有りました。そこから、北に向かって、遺蹟が密集してありました。

タイトルの「霧の中で吹いた口笛のカケ」に戻ります。
古事記に登場する所は、いくら本を読んでも理解出来ませんが、このように、現地を歩き廻り、その中に、自分を置きますと、歴史を発見できるのではと思いました。

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