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奴国から大山咋命、別雷神追放   86  -118- [真説 建国史]

 唐王神社の由緒によると大国主とスセリ姫は夜見国の板井原にしばらくおったのである。この間にスサノオ命の命令通り大国主神の庶兄弟を全て日野郡と西伯郡から追い出した。 坂の御尾に追い伏せよと云われた神は西伯郡でこの地形の所は岸本町坂長の賀茂神社に祀られていた別雷神で、古事記で味鉏高彦根命が名前を変えていると教えてくれた。 同じく地形で河の瀬になっているのは日野川の東岸の日吉津村のことである。 この地名から明らかな様に、ここにおったのが大山祇命である。 スサノオ命は別雷神と大山咋命は追いはらえと命令した。これが京の賀茂大社と日吉神社、松尾神社の祭神だった。 この時以後大国主神の庶兄弟を天皇の敵に回したことになる。この反対勢力の中臣の先祖の天児屋根命が収まった。 この時伯耆から追放された多くの庶兄弟は隣りの出雲に移って行った。この時から最近に至るまで出雲は天皇反対勢力の挙点になったのである。


---私のコメント---
スサノオ命に命じられた通り、大国主神は、庶兄弟を全て日野郡と西伯郡から追い出したと古事記には書いてあります。追い出された人達はどうしたのかと云いますと、遠い、京都に移動して、賀茂大社と日吉神社、松尾神社の祭神になって、今では、大きな立派な神社に祭神として祀られています。
当然、その子孫の方が、この神社の氏子になっておられる筈です。

もう一つ大きな謎が解決しました。
島根県の出雲大社の周りには、一杯の式内社が有ります。

式内社と祭神 
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

 上の一覧表より、出雲は、三番目に式内社が多い国です。四番目は、近江国です。式内社が多い所は、天皇にとって重要な所ですので、力を弱めるために、藤原氏が、その周りを自分たちの人で、固めた所だと理解しています。927年以降に、式内社を多く配置し、天皇家の活動を封じ込めました。



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