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大国村の国主になった葦原色許男   87  -119- [真説 建国史]

国土地理院の米子の地図を眺めていただきたい。米子の南の西伯町に倭の地名がある。ここが神武天皇が皇后を選ばれた時の歌に出て来た倭である。宇迦の山本とはこのすぐ東の山が宇迦と考えてよい。大国主神が謀殺されかけた手間山の南隣りである。 西伯町は最近まで大国村と天津村に分れていた。従って、葦原色許男が大国村のボスになって大国主神と呼ばれることになった。ここの倭の賀茂神社に大国主神と神武天皇が祀られている。 西伯郡がもとの根の国でこれは日野川が木の根の様に下流が拡がっていたことに由来していた。日野郡が夜見国でこれは三平山から夜間に見渡せる範囲だった。イザナギ命がイザナミ命を見舞いに行かれたのは夜見国の御墓原でよかった。  西伯郡と日野郡を合わせて奴国で、天津村がこの付近の地名から明らかな様に内港で、日向浦(境港)が外港である。 倭国や倭人は奴国の都、倭から由来していたことになり何の矛盾も見出せない。




---私のコメント---
「ここの倭の賀茂神社に大国主神と神武天皇」との記事は、殆どの方は、読んで、数時間後に、忘れられると思います。
神社の資料で大切なことは、祭神と所在地の地名だと思います。 次は、残っているのであれば、建て物から得ることの出来る資料だと思います。

日本の歴史を学ぶ時は、多くの方は、日本書紀を重要視されると思います。100%採用したらいけないのは、他の一書という部分と思います。

日本書紀に書かれてあることは、採用しても良い記事と、採用してはいけない記事に分れると思います。
 
今、次の記事を投稿しました。
 日本書紀における天智天皇紀の記述 その13----大蔵省の第三倉より
http://blog.goo.ne.jp/skeikas 

ここに掲載しています記事は、全部で、16あります。『大津京』というタイトルの本に、大津に大津京が存在していた証拠に成るものを、日本書紀から抜粋して、説明してありました。

 そこで、証拠にしてもいいものと、証拠にならないものに分ける作業をしています。

日本書紀に書かれている記事は、天智天皇が、大津市の錦織に居られた証拠にはなりますが、大津京があった証拠にはなりませんと、私の見解を書いています。

日本書紀に書かれてあることは、すべて、正しいと考えることは間違っていますが、古事記に書いてあることは、全て正しいと考えています。

ただ、正しいことを書きますと、古事記が燃やされて処分されますので、太安万侶は、いろいろ苦心して古事記を書いたと推理しています。

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