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No80 銅鐸の起源—2 [日本の歴史]

鏡とか銅剣、銅矛は、墓などに入れられることが多い。従いまして、墳墓が大きいだけに、今後も発見されることは多いですが、是までは、銅鐸の発見の機会は、偶然でしかも人が住んでいなかった所で埋められているために、今後とも少ないと思われます。
 となりますと、これまで発見された状態からどのような人が、何のために使用していたのか、推察をしなければなりません。沢山でているだけに、銅鐸を考慮にいれた日本史を考えなければなりません。
もう一度、銅鐸のことを①~⑦まで記します。
①記録に残っているものは、扶桑略記巻五 滋賀県大津市  崇福寺建立予定地 天智7年(667)166cm。  続日本紀 長岡野 宇太郡波坂郷人 和銅6年(713)。以下続きますが、この時代でもすでに、なにか判らなかったようで 、その内に宝鐸と呼ばれています。
②出土するときは、道路の工事とか、偶然が多い。
③滋賀県の近江八幡を中心として、島根県あたりまでの距離のところに多く出土する。
④山の中腹からの出土ケースが多い。
⑤割れているものもある。
⑥滋賀県に大型のものが多い。
⑦加茂岩倉や神戸市桜ヶ丘のように複数で見つかっているものもある。
⑧叩いた跡がみられるものもあり、叩いて音を出したのは、確かである。ただし、叩いていない新しいものもある。
考察
②④から。
弥生前期からあったと思われる銅鐸は、扶桑略記巻五に記されるまでに、800年経っています。異質のものだと書いてあるそうですから、変なものと見たのでしょう。単に見たことがないだけのことかもしれません。少なくとも、内緒で自宅に隠しておくとか、自宅の近くの地中では、拙かったのでしょう。もし、村の中で見つかったときは、村の者は、全員殺されることになっていたのでしょうか。見つかった銅鐸は、村の中心である神社のあるところから、2~4kmの山の中腹です。地表から比較的浅いところにあったケースが殆どらしいです。従いまして、大阪府箕面市では、住宅造成のブルドーザーで、引っ掛け、銅鐸は壊れました。浅いということは、急いでいた・又近いうちに再発掘する予定であったなどが考えられます。あまり、深いと10年も経ちますと、山の様子は植生が一変しますから、その場所の近くに、必ず目印の山や岩があるはずです。近年では、織田信長のために、仏像を埋めた例は、琵琶湖湖岸ではよく聞く話しです。
このように考えると銅鐸を持っていた人は、特殊な限られた人であったことになります。というものの、一目見ただけで人種がわからないような人であったことになります。例えば、ユダヤ人やアイヌ人ではなかったでしょう。
⑤から。
 これは、問題の点です。墳墓の中に、副葬された鏡にも、割れたものが多く見られます。
鏡と同様に、割られたのだと思います。敵に見つかって割られたと考えるのが、自然だと考えます。鉄の鏡にしても、銅鏡にしても銅鐸も自然には、割れないと思われます。割れたのであれば、大切な銅ですから、溶かせば、再度使うことが出来ることは、知っていたはずです。ただ、欠片に穴を開けて、使った様子のものも見られます。この場合は、銅鐸と関係ない人ガ、ペンダントのように使っていたと考えられます。

⑥から。No78で述べましたが、はじめだから立派であったと考えたいです。次第に人口も増えますから、銅鐸の需要も増したと考えられます。大きさは小さくなったのではと思っていますが、案外、大きなものは、プロが製作し、小さいものは、素人が作ったのではないでしょうか?

No78において⑩に、「忽然となくなった」
民族が全滅にあったとなりますと、相手は中国人、ユダヤ人、神武天皇などの天皇系の人などが上げられますが、中国人、ユダヤ人ともに、絶対数は多くなかったのではないかと考えています。神武天皇に負けた様子は大いにありますが、殺戮した様子はありません。吉野ヶ里は神武天皇に攻撃されましたが、吉野ヶ里の首たる者が逃げ出しましたので、全滅にならず、後代まで村は存続しています。
中国人がスサノオ系の人を使ったり、イザナギ系の人を使って天皇系の人たちと戦った可能性が大きいです。この点に関しては、又調べてみたく考えます。
イザナギは中山王国からやって来たと考えていますが、銅鐸が突然なくなったことを、銅鐸を使っていた人が、突然いなくなったと捉えますと、「忽然となくなった」は、イザナギに関しては、中国でも、日本でも共通する現象です。
No77 で述べましたように、イザナギを祀る熊野大社から出雲大社に権力が移りましたが、現在でも熊野神社が残っていると言うことは、全員が殺されたわけではないと思われます。
しかし、銅鐸の使用禁止は、そのときの条件の一つであったかもしれません。


No79 銅鐸の起源  --1 [日本の歴史]

銅鐸は形からいいますと、お寺の軒先に吊るされている風鐸に似た形をしています。ただ、風鈴のように、中に鐘を叩くもの(舌)はなく、空洞です。銅鐸はどのように使われたのか説明をした人はいっぱい居られますが、銅鐸の不思議なところを説明された方は居られません。
居られないのに、私が説明をする気になっています。そこで誤魔化しが多くなるかもしれません。騙されないように読み進んでいただければと思います。

是までに判っていることを箇条書きにします。
①記録に残っているものは、扶桑略記巻五 滋賀県大津市  崇福寺建立予定地 天智7年(667)5尺5寸(?)  続日本紀 長岡野 宇太郡波坂郷人 和銅6年(713)。以下続きますが、この時代でもすでに、なにか判らなかったようで 、その内に宝鐸と呼ばれています。 〔野洲町大岩山出土の銅鐸が134.7cmで最大とありますから、上の記録は間違い?〕
②出土するときは、道路の工事とか、偶然が多い。
③滋賀県の近江八幡を中心として、島根県あたりまでの所に多く出土する。
④山の中腹からの出土ケースが多い。
⑤割れているものもある。
⑥滋賀県に大型のものが多い。
⑦加茂岩倉や神戸市桜ヶ丘のように複数で見つかっているものもある。
⑧叩いた跡がみられるものもあり、叩いて音を出したのは、確かである。ただし、叩いていない新しいものもある。
⑨日本だけにみられる。(小銅鐸とよばれるものは、朝鮮でも見られる)
⑩忽然となくなった。

思いつくままに書いてみましたから、まだまだあると思います。そこで、これらに従って、検討を加えて、銅鐸がどのように日本に伝わったかを探ってみます。

まず⑨です。日本だけに見られるということは、日本だけで作られたと考えると一番すっきりしますが、何分精巧な銅製品ですから、一から日本人が作ったというのは、無理があると思われます。銅鐸ではないかと思われるのが、朝鮮式小銅鐸です。形も一部穴があいているなど、似ていますが、もともとは、複数個をまとめて牛・馬など家畜の首などに付けた“鈴”らしいのですが、日本ではそのような使い方ではなかったように思えます。
そこで、朝鮮半島で製作されたいわゆる朝鮮式小銅鐸をまねて作ったと考えてもいいのですが、朝鮮式小銅鐸は弥生中期中頃以後と見られているのに対し、近畿以東では中期初頭の土器と供伴する鋳型があります。銅鐸のほうが古い可能性が大きいです。それどころか、私は土器の編年は、200年ほど遡ってもいいのではと思っていますから、形は似ていますが、朝鮮経由ではなさそうです。
しかし、やはり渡来の製品と考えますと、中国しかありません。
中国では、編鐘という楽器が、紀元前450年からあったことが知られています。一セットは、いくつかの編鐘からなりますが、例えば65の編鐘からなるものなどが見つかっています。500ぐらいのセットが発見されており、銅製で、叩いて音を出すものとしては、一番銅鐸に似ています。楽器ですから、音階があります。写真で見たところでは、音を変えるために、編鐘の表面には、突起が設けられています。しかし、これは日本の梵鐘のイボイボと似ていますから、響きを良くするためのものかもしれません。パイプオルガンの管の長さが違うように、明らかに、すべての編鐘の大きさが異なっています。吊り下げる形態は同じですが、土の中に埋めるというような風習は見られません。
 ③は重要なポイントではないかと思われます。正確に作られた年代が判らないのであれば、銅鐸の分布の中心は、滋賀県です。池に石を投げ込みますと、同心円を作りながら広がっていきます。弥生時代を掛けて広がっていき、最終が、島根県あたりであったことになります。では、最初が滋賀県であったことになりますが、それでは困ることがあります。
発見が一番であった、大津市の崇福寺建立予定地の銅鐸は、166cmです。普通は、みなさん、小さかったものが、次第に大きくなったと考えられますから、この点が困ります。ここの人たちが、渡来の人ではじめから技術があったと思えば、はじめから、大きいものを作ることが出来はずです。鋳型が石であれば、少々温度が高い銅でも流し込めたでしょう。土器や粘土の鋳型では、銅を流し込んでいるうちに割れてしまうと思います。高温で焼いた磁器に近い陶器が必要になります。そのためには、銅鐸が見つかった近くに、釜跡が見つからねばなりません。もし、石製の鋳型を使ったのであれば、沢山発見されなければなりません。
ということは、発想を変えて、現在の人が考え付かない方法で作っていたとして、方法を探る必要もあるかもしれません。

⑦が最後になりました。これが一番難儀な点です。
銅鐸は、当初は叩いて連絡に使ったり、お祭りに使ったと思われますが、叩かれていないものが多いということは、次第に村の象徴のようなものになったのではないかと考えます。村の主が死んでもお墓に入れられることは無かったのでしょう。中心的なものが複数個あるのはおかしいですから、複数個あるときは、漢鏡と同じように誰かに与えるために保管されていたとみるのがいいでしょう。案外、製造元だったのかもしれません。
この仮説は想像の閾ですから、別の角度でそうだと言えるようにしたいです。


No78 出雲を追われるイザナギ族 [日本の歴史]

No77において、「【神国島根】という本に、出雲の神社が638座掲載されています。そのうち、伊耶那岐命、伊耶那美命を主祭神にした神社は100座あります」と書きました。
【神国島根】は、1981年発刊になっています。
この時点でもなお、伊耶那岐命、伊耶那美命の勢力は残っていることになります。この本に、大原郡加茂町大字新宮101 に熊野神社があったことが記されています。
 その内容を記します。
熊野神社  村社
〔交通〕 木次線加茂中駅下車東北へ2.5km
〔鎮座地〕大原郡加茂町大字新宮101
〔旧地名〕大原郡屋裏村大字新宮101
〔主祭神〕速玉男命
〔配祀神〕伊弉册命、事解男命
〔境内神社・祭神〕金刀比羅神社(金山彦命)、荒神社(素佐鳴命)
〔由緒〕創立年代は不詳であるが、紀州熊野神社より御分霊を勧請し、熊野権現と称え、村民の崇敬厚く、高麻城主鞍掛近江守の幕下、打垣又太郎清重の祈願により、その寄付に係る鏡面今尚存している。記録によるとこの城主、永禄年中に落城したので、これにより考えると、当社の創立年代は永禄以前にあることを証するに足ると思う。明治4年12月村社に列せられる。昭和21年7月20日宗教法人として発足した。    以上

この神社に行かれた田村誠一氏は、自分の著書で次のように書いておられます。
「現地を訪れて見ると相応しい場所の神社が八幡神社となっていて、ここは加茂岩倉遺跡
から東2kmになっています。これは鳥取県と全く同じパターンで銅鐸を埋めたのは白狄人
です」
この文章は、少し説明が必要です。鳥取県で銅鐸が発見されたところから、2~3kmの近
くには、イザナギを祀った人が必ずあるから、この神社の近くに住み、イザナギを尊敬し
ていた人が、その銅鐸を埋めたというのが、田村氏の考えです。
私もこの推理は正しいのではないかと思っています。
その理由は、由緒には、「紀州熊野神社より御分霊を勧請し、熊野権現」と書かれていま
すが、それより以前から、熊野神社があったと考えます。地名が新宮です。きっと、隣の
熊野大社の宮内に対して、新宮だと思います。従いまして、熊野神社が作られたのは、由
緒にかかれているより古いと思います。
田村氏の思い違いかも知れませんが、もし、本当に【神国島根】に掲載されていた熊野神
社が、八幡神社に変えられていたのであれば、昭和21年以後であっても、八幡神社に変え
たい人が居られたことになります。
ここまで私が書いてきて言いたかったことは、このように、最近でも書き換えたい人が居
られるということは、昔は当然、次々と書き換えられたと思います。
主祭神の速玉男命は、古事記にはでてきません。日本書紀の一書(第十番目)に出てくるだ
けの、特殊な名前です。そのため、「速玉男命」をキーワードでインターネットで検索し
ますと、膨大な神社がヒットしますが、中には、速玉男命はイザナギと同じであると書か
れているのがいっぱいです。この神社の神主さんは、自分の神社の祭神は、イザナギだと思いたいのでしょう。
しかし、日本書紀には、イザナギが黄泉の国から帰ったときに、イザナミに対して、「不
負於族」と云って、その約束事のために、唾をはかれたときに生れた神を速玉男命といい、
またイザナミや黄泉国との関係を断つために掃くときに生れた神を事解之男と名づけると
書かれていますから、速玉男命はイザナギの子供ということになります。

いつの時代か判りませんが、日本書紀を正しいとおもう人によって、熊野神社の祭神は、
イザナギから速玉男命に書き換えられたことになります。そして和歌山の本家では、勿論、
速玉男命も祭られていますが、主神はスサノオに書き換えられています。

話しは変わりますが、先ほど、加茂岩倉遺跡のことを書きましたが、ついでに、このこと
を書きますと、加茂岩倉遺跡では、全国最多39個の銅鐸が出土しました。普通は、どの遺
跡でも一つの銅鐸が出土します。多いということは、加茂岩倉遺跡の近くに住んでいた人
は、白狄人ではなく、白狄人にこの、銅鐸を渡して白狄人を自分の家来にしようとしてい
た人であると考えられます。この遺跡の3kmほどのところで、全国最多358本の銅剣と
16本の銅矛と6個の銅鐸が出土した荒神谷遺跡があります。是は、複雑です。
銅剣と銅矛を使っていたひとは、殆ど九州の人です。この人達は、銅鐸を使っていません
でした。ということは、ここの人は、九州から来た人で、銅鐸を作って、白狄人を兵隊と
して使う目的で、銅鐸を6個持っていたが、加茂岩倉遺跡の人と同様に、なんらかの事情
があって、埋めなければならなくなったと思われます。

日本書紀ができたのは、720年。その後、式内社が制定されましたが、政府のお墨付きであ
るはずの式内社には、天照御大神を祀る神社が殆どありません。ということは、天皇と反
対勢力の人が、支配する神社であったことになります。いずもでは、その式内社が187座
あります。この時の権力を有していた人は、藤原不比等ですが、この人は漢人です。広い
意味では中国人です。
熊野神社の主祭神が速玉男命やスサノオに書き換えられたのは、この時からだと思います。
この仮説がただしいかどうかは、全国にある3300社の熊野神社の祭神が、イザナギに鳴っ
ているところを調べればいいことになります。そこは、天皇の勢力が強かった所です。東
隣の伯耆の国は、式内社はわずか6社です。ということは、天皇の勢力が強かった所です
から、伯耆の国の熊野神社を調べるだけでも判るかもしれません。ところが、出雲に追放
されたと思われていたスサノオを祀る神社が、鳥取にもいっぱいありますから、分析は慎
重を要します。


No77 出雲の熊野神社 [日本の歴史]

一宮は、「いちのみや」と読みます。昔の66ヶ国があり、中央から伝達が、最初に伝えられたから、一宮と言われたらしいですが、確かめていません。岐阜の一宮とか、神戸の三宮は、地名として残っています。勿論、二宮、三宮と呼ばれる神社もありますから、その順番でつたえられたのでしょうか? 私は怪しいように思っています。
蛇足ですが、神戸市には、一宮神社、二宮神社・・・八宮神社まで、神社そのものの名前が、揃っています。これは、どのように考えれば良いか、神戸市の人にお任せしたいところです。
蛇足ついでに、もう一つ加えますと、淡路の一宮は、伊弉諾神宮 、美作の中山神社です。
伊弉諾神宮の祭神は、伊弉諾大明神(イザナギ)、中山神社の祭神は、中山大明神です。どなたも認めたくない話しですが、私は、イザナギは、中国の中山王国から来たと考えていますから、中山大明神は、イザナギのことにしています。現在の中山神社の由緒では、祭神は鏡作神 相殿 天糠戸神,石凝姥神となっていますから、少なくともどこから来たかを別にしても、この神社を祀った人は、鏡作りをしていたと思われます。相殿に祭られている石凝姥神は、天照大御神が、天の岩戸にこもったときに、出てきてもらうために、小道具として鏡作りを担当した神です。紀元前180年頃のことです。
出雲の一宮は出雲大社ですが、以前は、熊野神社であり、出雲大社に譲られたことになっています。
やっと、熊野神社の名前に到達です。
【神国島根】という本に、出雲の神社が638座掲載されています。そのうち、伊耶那岐命、伊耶那美命を主祭神にした神社は100座あります。熊野神社だけでも14座を数えますから、(田村誠一著 神武東征は伯耆から)出雲は、イザナギ(白狄人)の勢力が、伯耆より強かったことが判ります。
この14の熊野神社のうち、八束郡八雲村宮内にある熊野神社が、現在熊野大社と呼ばれる神社だと思います。この神社は、特別な位置にあります。古代人のルールに当てはまります。
 伯耆大山と同じ緯度に、加茂町があり海抜283mの低い山ですが、同じ、大山と名が付いています。「大山」の大は、伊耶那岐命を意味します。この二つの山の中間に出雲の中心の八雲村に宮内がありますから、14の熊野神社の中心的存在であったと思われます。伊耶那岐命はここに、部下を派遣していたでしょう。
銅鐸の出土で有名な加茂岩倉遺跡も荒神谷遺跡も伯耆大山と同じ緯度にあります。このようなことも踏まえますと、イザナギ(白狄人)は中国の中山王国からやって来て、銅鐸を使っていたと推察できる材料が増えたことになります。
問題は、熊野大社の祭神が、スサノオであることです。これでは、私の推理は、ペシャンコです。
八雲村のホームページで、面白い話を見つけました。
「ご祭神は素戔嗚尊で、出雲国風土記に「日本の国をつくられた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子である」とあります。また別のお名前は熊野大神櫛御気野命(くまののおおかみくしみけのみこと)ですが、これは江戸時代の有名な国学者本居宜長が「櫛御気野命と申すのは、すなわち須佐之男大神(すさのおのおおかみ)が、この熊野宮に鎮まり坐す御霊をたたえるお名前なり」と書いているように、出雲国の食物の生産を見守るいちばん位の高い神様でした」とあります。
素戔嗚尊(スサノオ)は、イザナギの子供ですから、イザナギを祀ったと同じと思われるかもしれませんが、イザナギが禊をしているときに、左目を洗っているときに成れる神が天照大御神、右目を洗っているときが、月読命、鼻を洗っているときが建速須佐之男と古事記に書かれています。日本書紀では、生れたと書いてあるので子供と言われていますが、顔を洗っているときに、生れるわけがありません。古事記の作者は、読んだ人に理解できないように書いたと思われます。
こじきには、大変重要なことが記されている箇所があります。
「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり」と書かれた部分があります。この部分の意味が良くわからないのですが、どうやら、前後にあったはずの文章が消されたのではないかと思われます。そして、「天菩比命の子、建比良鳥命 は、皆さん間違えないでください。これこれの国造をしています。天津日子根命の子孫は、これこれの国造をしています。漢人ですよ」と警告しています。古事記に掲載されている国造は、24ですから、国造のうち、半分近くが漢人が占めていることになります。
出雲大社には、大国主命が祭られています。大国主命はスサノオの孫ということになっています。スサノオは、アマテラスの弟(日本書紀では)ですから、天皇の勢力が強い国のはずです。天皇系の大国主命より国造の方が、権力が強かったことになります。その大将が、現在の出雲大社ということになります。
一宮の地位を熊野大社は、出雲大社に譲ったことになりますが、どうやら奪い取ったのではなかったようです。そのように思わせることが、八雲村のホームページに掲載されています。
『熊野大社には数多くの祭があるが、これらの祭の中でもっとも有名で、熊野大社の特色がよく現れている祭が鑚火祭です。この祭は出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する神聖な「火」をおこすためのひきり臼とひきり杵を受け取るために熊野大社を訪れます。「古伝新嘗祭」とは出雲国造の祭ですが、この祭のなかで出雲国造とその祖先神であるアメノホヒノミコトとが、ご一緒に食事をなさる儀式(相なめの儀)があり、このときに用意される食事はすべて神聖な鑚火(きりだした火)でつくります。この火をきりだすための臼と杵を「ひきり臼・ひきり杵」といい、毎年熊野大社から授けることになっています。
 その時に出雲大社は長さ1メートルある大きな餅(神餅)を箱に納めて持ってきます。その時に、熊野大社の神職の中でも位が低いにもかかわらず出雲大社の餅のできばえについて色が悪いとか去年より小さいとか形が悪いなどと口やかましく言い立てます。出雲大社の神職は、ひたすら聞き手に回ります。ようやく亀太夫が承知して餅を受け取ると亀太夫は祭壇からひきり臼とひきり杵を持っており出雲大社の神職に渡します。この亀太夫神事のときばかりは、熊野大社は出雲大社より優位に立ちます』
一宮の地位を譲るときには、きっと、いろいろ条件があって、円満に解決したと思われますが、このような形で熊野大社が優位なこともあったのだと想像できます。
このときか、その後のことかわかりませんが、イザナギが主祭神であった熊野大社が、スサノオが祭神になったのだと思います。同時に、和歌山の熊野三山の祭神も、スサノオになったと思われます。


No76 鳥取県の銅鐸に見られる共通点 [日本の歴史]

************ 銅鐸出土地 * ********* *遺跡と神社との距離
1. 伯耆 東伯郡東伯町八橋龍宇王   方見神社   2キロ   八橋遺跡
2. 伯耆 東伯郡北条町米里字ゾウガラ 宮崎神社   4キロ   米里遺跡
3. 伯耆 東伯郡泊村小浜池ノ谷     松尾神社  4キロ   泊遺跡
4. 伯耆 東伯郡羽合町長瀬高浜     長瀬神社   隣接   長瀬高浜遺跡
5. 伯耆 東伯郡東郷町北福        国主神社   近接   東郷遺跡
6.  因幡 八頭郡船岡町破岩       久多美神社  3キロ   破岩遺跡
7.  因幡 八頭郡郡家町東梶平      貴布弥神社  3キロ   東梶平遺跡
8. 因幡 鳥取市越路            愛宕神社   4キロ   高住遺跡
9.  因幡 岩美郡岩美町新井        熊野神社   近接   上屋敷遺
10. 因幡 気高郡青谷町青谷                 青谷上寺地遺跡
11. 伯耆 倉吉市小田字樋ノ口       新宮神社  2キロ   軍人墓地内
外に、出土地不明が3面あり。  合計15面

銅鐸が出土した所から近いところに神社がある。即ち、住んでいたところから、それほど遠くないところに銅鐸を埋めたことになる。 伊耶那岐命、伊耶那美命、カグツチが祀られている神社の近くに、銅鐸が発見されているということは、銅鐸を埋めたのは、白狄人だったと見てもよいように思われます。
銅鐸は、500個ほど見つかっていますから、全国的に、このように調べると一層確かになります。


靖国神社参拝 [思うままに]

靖国神社は、メディアが期待していた通りになりました。

小泉首相が、参拝するシーンを撮って、キチガイのように大暴れをする中国と朝鮮の
シーンを撮って報道。
テレビに映るプラカードには、鬼畜という字が大きく写っていました。
マイクを向けると商品のボイコットを叫んでいました。取材するほうも、きっと、あの言葉
がでるまで、マイクを突き出したのだと思います。
われわれは 鬼であり、畜生であるのです。

最大の言葉をあびせて、きっと、気が済んだのでしょう。
しかし、本当に、国をあげてあの調子であるのであれば、進出している企業も考えないと
えらい目に遭うでしょう。

それにしても、日本は不思議な国です。小泉首相を叩くほど、新聞の売り上げが増えるのでしょう。
メディアは政府が困るほど、いいらしいです。

国がどうなろうが、私にはどうしようもありません。
少なくとも、あんな危険な中国と朝鮮には、当分は行きたくないですね。


No75 熊野神社の祭神 [日本の歴史]

青森県南津軽郡田舎館村の熊野宮、五所川原市梅田の熊野宮、弘前市田町の熊野奥照神社、東津軽郡平内町狩場沢字関口の熊野宮、弘前市樋ノ口町の熊野宮、弘前市堀越の熊野宮は、すべて、伊邪那岐命、伊邪那美命(伊弉諾命、伊弉册命、伊邪那岐神、伊邪那美神、伊弉諾命、伊弉册命、伊弉諾尊、伊弉冉尊)
すみません。漢字ばかりで。すべて、イザナギとイザナミを祀っているのですが、本当は、漢字が違いますと、意味する所が異なります。僅か、青森県だけの熊野宮で、是だけの違いがあるのです。
この資料作りをしていたときに、熊野神社の祭神は、他の神も祀られていることは知っていましたが、イザナギとイザナミが主体だと思っていました。
 そして、時間がないので、各神社の創祀は、資料に加えませんでした。しかし、資料つくりのときに、目は通しますと、創祀不明とか、江戸時代とか書かれていたように思います。和歌山県から勧請したように書かれていました。
当然、和歌山の熊野神社の祭神は、イザナギとイザナミと思っていましたら違います。

和歌山の熊野神社は熊野三山、熊野三所権現ともいい、和歌山県新宮市にある(熊野速玉神社)、東牟婁郡本宮町にある本宮(熊野坐神社)、同郡那智勝浦町にある(熊野那智神社)の三社の総称で、全国の熊野社の総本社になります。
全国の熊野社の総本社とは、どういう意味かよく判りませんが、青森県で、新しい村を作ったときに、熊野神社を作ろうかと考えたときは、勝手に作ることができないのでしょうか? そうではなく、作っていたが、権威をたかめるためとか、全国の仲間に入れてもらうために、勧請という形をとったのでしょうか? どちらにしても祭神は同じでないとおかしいです。
熊野三山の祭神は、同じではありませんが、家津御子大神(スサノオノミコト)は共通です。
ということは、青森県の熊野神社と祭神が異なります。是は、どのように考えればいいのでしょうか? 偶然、同じ名前の熊野神社になったと考えるしかないでしょうか? 
大変なことです。こうなると全国の熊野神社を調べる必要があります。8000社もあるといいますから、私一人では無理だなとしり込みしています。全部調べてから書きますと、いつのことになるか判りませんから、判ったことから順に書いていきます。
次回は、出雲の熊野神社を書きます。


No74 なぜ イザナギを祭る神社が全国にあるのか [日本の歴史]

No67において、イザナギを祭る神社を書きました。もう一度記します。

青森 7  岩手  6  宮城  4  秋田   6  山形  11  
福島 4  群馬  2  栃木  1  埼玉   5  千葉   9
東京 5  神奈川 6  新潟  3  富山   1  石川   9
福井 11  長野  9  山梨  6  静岡   14  愛知  20
岐阜  22  滋賀   4   三重   1    奈良    2   京都   7
大阪  2   和歌山 1   兵庫   4    岡山    11  広島   5
鳥取  6   島根  10   山口   4    香川    2   徳島  5 
愛媛   8 高知   8   福岡   15   佐賀   2 長崎   5
熊本  8   大分  2    宮崎   12   鹿児島  8

No67執筆後、調べてみましたら、イザナギを祀る神社は、これどころでありません。白山を中心にして、白山信仰が盛んであったらしく、白山神社が全国に分布します。白山神社で、インターネットで検索しますと、いっぱいヒットしますが、不思議なことに、殆ど、祭神の名前が書いてありません。すべて、イザナギとイザナミであることが判っているからだろうと思っていましたら、カグツチを祀る神社もあり、イザナギとイザナミを祀っていない神社もあります。全国には、2700以上と記しているものもありますが、3000以上と書いているサイトもあります。中には創祀が、1800年台の神社もあり、簡単に、その数字だけで判断するには、無理があるようです。
白山神社の総本社は、白山比咩神社といい、加賀国の一宮でした。現在の鎮座地は、石川県白山市三宮町で、創建は崇神天皇の頃とされています。現在の祭神は、菊理姫、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三神を祀る。
イザナギとイザナミを祀る神社は、白山神社のほかに、No67 で紹介しました、熊野神社があります。この神社の総本社は、熊野三山、熊野三所権現ともいい、和歌山県新宮市にある(熊野速玉神社)、東牟婁郡本宮町にある本宮(熊野坐神社)、同郡那智勝浦町にある(熊野那智神社)の三社の総称で、全国の熊野社の総本社になります。三社の共通の祭神は、家津御子大神(スサノオノミコト)です。神社により、数柱の祭神を有し、イザナギとイザナミを祀る神社もあります。
そのほか、多賀神社や伊弉諾神社など数え切れません。
全国に分布していることは確かです。諏訪神社は、全国で8000社を超えます。是だけ多いですと、祭神のイザナギとイザナミは神話の神であると切り捨てるわけには参りません。

イザナギが実在の人となりますと、この分布を説明しなくてはなりません。イザナギが生きている間に、東北も制覇したのであれば、古事記に掲載されたはずです。
イザナギが滋賀県の多賀に移動してから暫くが、最高のときだったと思われます。その後、元々、戦争が苦手であった白狄人は、漢人に使われ、そして追いたてられるようになります。逃げるときに、又、戻ってきたときのために、銅鐸は山の中腹へ埋めたのではと考えられます。しかし、それだけでは、説明のつかないことが、あちこちで起こっています。銅鐸が出ない東北は、どんどん追い払われて逃げた先ではないでしょうか?

出雲のように、一箇所から大量に見つかったところがあります。ここでは、イザナギの子孫を漢人の兵隊として雇うために準備していたのではないかと思われる節があります。

イザナギを祀る神社を調べるだけで、イザナギ系の人たちが、どのように移動したかわかるような気がします。一つだけ、不思議に思っていることがあります。次回は、熊野神社のことを書いてみます。


No 73 製鉄所を襲撃したスサノオ [日本の歴史]

高天原を追放されたスサノオは、出雲國の肥の河の上流の鳥髮の地に降りました。この時、お箸が河を流れ下ってきました。そこでスサノオは、その河の上流に、人がいると思って尋ねもとめて上って往くと、二人の老夫と老女がいて、二人の間に童女を置いて泣いていました。「汝等は誰か」と問われますと、其の老夫が答えて言うには、「僕は國の神です。大山津見神(オオヤマツミノカミ)の子ですよ。僕の名は足名椎(アシナズチ)と謂(イ)う。妻の名は手名椎(テナズチ)と謂う。女(ムスメ)の名は櫛名田比賣(クシナダヒメ)と謂います」 亦、問う「汝は何の理由で哭(ナ)いているのか」。 答えて白(モ)して言うには、「私の娘は、元八人の幼い子がいました。そして、高志(コシ)の八俣(ヤマタ)の遠呂智(オロチ)が毎年来て喫(ク)ってしまいました」「今が来るときなので泣いています」と。 その形は如何かと問いますと、「その目は赤加賀智(アカガチ)の如くで、身が一つなのに、頭が八つあり、尾が八つあります。 亦、身体には蘿(コケ)と桧と榲(スギ)が生(ハ)え、その長さは八つの谷峽と八つの尾根に度(マタ)カがっています。其の腹を見れば、どこもかしこも血で爛(タダ)れています」【此に赤加賀知と謂(イ)うのは、今の酸醤(ホオズキ)なり】  以上が古事記に書かれているストーリーです。私の翻訳ですから、間違っている所があるかもしれません。
出雲國の肥の河の上流の鳥髮の地とあります。肥の河は、斐伊川のことでしょう。(日野川かもしれません)どんどん登っていきますと、大呂(島根県横田町)に着きます。この近くに船通山(1142m)の麓に、鳥上(トリガミ)があります。これが古事記にある鳥髮と思われます。手元の大まかな地図では、大呂は六本ぐらいの道が集まっていますから、その当時は、八つぐらいあったのでしょう。古事記では、【高志之八俣遠呂智】と書かれている【八俣遠呂智】が【八俣の大呂】であることが判ります。
古事記のどこを読んでも大蛇とは書いてありませんのに、いつの間にか大蛇となり、大蛇退治になっています。「大蛇」を「オロチ」と読むようになったのはいつ頃からなのでしょうか。このように眺めてきますと、地名「大呂」は、その時代からあったと思われます。
稗田阿礼は、古事記を書くために、取材に横田町の大呂も訪れたと思われます。そして、スサノオが、ここの製鉄所を襲撃した話を聞いたのだと思います。その製鉄所は跡形もなく、全山が製鉄工場のようになっている話を聞いたのだと思います。この製鉄所は、踏鞴製鉄より進んでいたと思われますが、稗田阿礼が行ったときは、それを守る者はなく、過酷な製鉄所に嫁ぐものは無いため、略奪結婚が行われていたと考えられます。素晴らしい推理ですが、これは、私の物ではなく、田村誠一氏の推理です。
氏の推理をそのまま、続けます。
ここの製鉄所の構造を説明します。山の中腹に胴体が一つあります。その胴の上には、八つに分かれた煙突状のものがあります。一番上には、目のように見える真っ赤なホオズキのようなものがありました。ここから、温度を知るため、中の様子をみたのでしょうか?
加賀智は出雲の方言で、すり鉢のことですので、すり鉢状になっていて、そこから、炎が噴出していたのかも知れません。 胴の下にも、八つの部分があり、恰も尾のようでした。山ですから、その背に当たるところには、コケが生え、杉や桧が生えていました。お腹の部分は見ることは出来ませんが、血が出て、真っ赤に爛れているようになっていたでしょう。
陶器を焼く釜に、登り窯というのがあります。山の傾斜に窯を作り、高温を作り出す装置です。登り窯には、八つの頭も八つの尾もありませんが、この製鉄所はあったのでしょう。
コケや杉や桧が生えているのですから、地中深く、穴が開けてあったのではないでしょうか? 溶鉱炉に当たる部分は、上の方でしょう。上に行くほど高温になったのではないでしょうか? そして下の八つの部分から、鉄が流れ出てきたのではないでしょうか。
地中深くから、この製鉄所が発見されるかもしれません。
ここの人たちは、素晴らしい品質の鉄を生産していたと考えられます。この鉄を使って、素晴らしい切れ味の良い刀を作り、腰に下げていました。この後、古事記は続きますが、スサノオは、彼らをやっつけ、その刀を取り上げます。この刀が草薙の太刀と呼ばれるものです。現在でも、この辺りで作られる鉄は、日本刀にされています。
鉄を作るためには、膨大な木や炭が必要です。これを運ぶために、川が使われ、そしてそこを船が通りましたので、山の名前に、「船通山」が付けられました。少し、調子が良すぎるでしょうか? 地名はその場所で利用する人が誰にでも判るように付けますから、案外合っているかもしれません。
話変わって、地名「大呂」ですが、下記のように五ヶ所確認しています。
① 島根県仁多郡横田町
② 島根県簸川郡佐田町
③ 鳥取県八頭郡智頭町
④ 京都府中郡峰山町
⑤ 京都府福知山市
あたかも、北緯35度11分~21分の間に、鉱脈があるかのように、「大呂」は並んであります。福知山市は、現地にいってきました。大呂に住んでおられる加藤さんにお話をお聞きしましたところ、昭和の初め(?) 田に鉄分の多い水が流れこみ、護岸をして流れを止めようとしたが停まらなかったとの話を聞きました。その辺りと思えると所を探しましたが、判りませんでした。中郡峰山町は現在でも、鉄ではなさそうですが、鉱山があり会社も存続しているようです。
また、智頭町大背の那岐神社に行きましたときに、間違って違う神社に案内してもらいました。そこには、イザナギではなくスサノオが祭られていました。その後、製鉄遺跡があるとの表示を頼りに車を進めますと、どんどん山の中に入り、車を進めることが出来なくなりました。製鉄遺跡はみつからずでしたが、その近辺にもやはり、スサノオを祭る小さな祠がありました。鳥取県ですが、スサノオは製鉄に関係があるのだなと実感しました。大背の近くには横田の地名もあり、大呂や横田は製鉄に関係があるのではと思います。


No72 白狄人は鉄も作っていた [日本の歴史]

イザナギは、中山王国の出身だと断定して話しを進めていますが、困ることが一つあります。東京で開かれた中山王国の文物展には、鉄製品が含まれていました。鉄製品どころか、融点の異なる銅と鉄を繋ぎ合わせた製品もありました。そうなるとイザナギが渡来した後、日本で製鉄がおこなわれたという事実が無いと辻褄が合いません。
現在までにわかっている鉄の遺跡は殆ど、6世紀ころ以後ということになっています。最近、どんどん更新されまして、BC200の遺跡カが見つかっていますが、普通はそんなに古くないと考えられています。少し例を挙げますと、岡山県総社市・千引かなくろ谷遺跡は、6世紀後半。岡山県久米町・大蔵池南遺跡は、6世紀後半。広島県庄原市・戸の丸山遺跡は弥生中期後半。岡山県・津寺遺跡は、200~340年。広島県三原市・小丸遺跡は、西暦200年などです。
 イザナギが製鉄技術を持っていたとしますと、紀元前170頃に、日本に製鉄技術が伝わっていなければなりません。小丸遺跡とくらべても 300年の隔たりがあります。

受け入れ易い話題を一つ書きます。
茨城県結城郡八千代町の尾崎前山遺跡は、縄文、弥生、平安の複合遺跡ですが、製鉄炉、付属施設、住居跡、出土した土器から判断して、8~9世紀後半と言われています。これは、東京工大製鉄史研究会が発表したもので、この説は確定しているらしいです。インターネットでは、そのように書かれています。ところが、この遺跡から、出土した木炭を学習院大学の木越邦彦氏がカーボン14法(放射線炭素測定法)で測定したら、紀元前170年であったとのことです。このデーターは間違っていたのかどうかは確かめていません。もし、紀元前170が正しいとしますと、カーボン14法は、全く意味を成さないものだと言えます。私は、カーボン14法は正しいのではないかと考えています。(他の遺跡のデーターから判断して)
今度は、受け入れて貰えないであろう話を書きます。
古事記にスサノオが八俣大蛇を退治するはなしがあります。この話しは詳しく書きませんとご理解願えませんので、次回に書くことにします。
私は古事記に書いてあることは、本当のことですが、太安麻呂が、御伽噺のように書いたのだと思っています。従いまして、少し想像を逞しくしないとなんのことか判りません。八俣大蛇はイザナギが作った製鉄所です。高天原を追われたスサノオは、横田の製鉄所を襲います。
スサノオの剣が、八俣大蛇を切ったときに折れたということは、大蛇の剣の方が、品質が良かったということです。戦いは、八俣大蛇は製鉄所の従業員との戦いになり、スサノオの剣が折れたということです。この辺りは田村誠一氏の想像です。
このように古事記からの解明によりますと、スサノオの製鉄所襲撃も紀元前170年ころのことで一致します。


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