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No66 イザナギの活躍 [日本の歴史]

古事記をもう一度、はじめから見直してみます。
古事記の書き出しはヒルゼン高原の春の彼岸の景色です。木の枝に雪が残って浮いた脂のように見える頃、葦の新芽が牙の様に萌え上がる頃に神々が登山をして来ました。
その名前は、國之常立神、豐雲野神、宇比地迩神、妹須比智迩神、角杙神、妹活杙神、意富斗能地神、妹大斗乃辨神、淤母陀流神、妹阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神、妹伊邪那美神の十二人の神々です。
このうちの何人かは、鳥取県の千代川を真北に遡ったと思われます。そして、目印となる山に、那岐山(1240m)と名づけたと思われます。北緯35度10分です。ある者は、そのまま、真南に吉井川を下って河口に出ました。きっと、イザナギとイザナミだと思います。そして、真東に瀬戸内海を進んで、淡路島に到達しました。
日本書紀の国生みの最初に淡路島を胞としたとあり、国の中心にしました。幽宮と書かれていて、いかにも、この地に宮を作り、死の場所にしたように書かれていますが、出発点だと思います。現在のイザナギ神宮です。イザナギには、古代にはいろいろルールがあったようで、地図がなくても判るように、方角に拘って、山の名前を付けたり、地名を決定したようです。
隠岐島の高尾山の真南の島根半島に高尾山を決定。その高尾山と大山の横の笛吹山を結んだ延長線上に、淡路島の多賀を決定しています。
ヒルゼン高原に居たイザナギは、その後、日本書紀では淡路島にいったと書かれています。古事記では、「淡海の多賀に坐すにり」と書かれていますから、琵琶湖の近くの多賀に居られますという事です。現在の多賀神社のあるところではありません。近江八幡の多賀町です。イザナギはここに宮をさだめましたから、宮内という地名が残っています。当時は島でしたが、同じ近江八幡に白王町という地名があります。イザナギが白狄人であり、王ですから、白王です。
丹後半島に高尾山、近江の白王、神戸市の高尾山、淡路の多賀の四点を結びますと、不思議なことに、ひし形になります。丹後半島に高尾山と淡路の多賀を結びますと、正三角形が二つできます。地名は後からどこにでもつけることは出来ますが、山はそう都合よく、その場所に存在しません。
そのような場所にある山に高尾山と名づけたと思われます。このようなケースは、外にもいっぱいあります。私は、これを古代のルールと呼んでいます。目印になる高尾山は、二等辺三角形に手を加えられているように思われます。(すべて確かめたわけではありません)
 そんなことが可能であったのかといいますと、別に難しいことではありません。那岐山から彼岸に朝日が昇る山を見つけます。その山に登って、また、朝日が昇る山を見つけます。順番に山を見つけていきまして、その線上に、自分が住もうとする多賀を決定すればいいことになります。近江の白王町から今度は、逆に彼岸の日に、西に沈む山を見つければ、先ほどの山と一致しますと、那岐山と白王町は、正確に北緯35度10分になります。
那岐山の東の目標は、東ノ山(宍粟郡)の名前になったことが納得できます。氷上郡妙高山もあります。正三角形はどのようにして測定したのでしょう?
那岐山の麓に、那岐神社があります。創建はいつかわかりませんが、祭神に10名の神さんが連ねられています。古事記に書かれている神です。ほとんどの神社の祭神は、日本書紀に書かれている名前になっています。気になるので、実際に行ってみました。JRが走っていますから、昔の街道だったと思いますが、車で行きました私から見ますと、良くぞこんな所に集落があるなと思いましたが、古い旅館がありました。
那岐神社の祭神は、イザナギとイザナミを除いた國之常立神、豐雲野神、宇比地迩神、妹須比智迩神、角杙神、妹活杙神、意富斗能地神、妹大斗乃辨神、淤母陀流神、妹阿夜訶志古泥神の神々でした。
ここまでは、漢人の勢力が届かなかったから、字がそのまま残ったことになります。本当は逆だと思います。稗田阿礼は、この神社まで実際にやって来たのだと思います。そして、神社や村の人たちから、いろいろ耳にしたことを持ち帰り、古事記の最初の部分が出来上がったのだと思います。
いや、それは間違いだ。古事記に載っている神さんをわれわれの村の神にしようと那岐神社を作ったと思われる方もあるでしょう。そういう方は、実際に行かれ、その村にある神社をすべて調べられますと、それが間違いであることが判る思います。この町では、有名な祭りがあります。こんなことも含めて考えますと、いつの頃からか判りませんが、那岐神社は、紀元前からあったのだと思われます。

ここ暫く、丹後半島の中国人を探っているのですが、魏の国の難升米が、文献に現われるのは、238年です。想像ですが、大陸からやってくると丹後半島には、相当の中国人がやって来たはずですが、見つけることができません。そこで、方針を変えて丹後半島には、イザナギやアマテラスがやってきたのではないかと探るつもりで、イザナギの動きを追っています。
ところが、丹後半島には現われません。
ただ、一つ気になることがあります。丹後半島の高尾山はイザナギ系統の人がつけた名前だと思います。その真北に犬ヶ岬があります。No64において、中山王国の出土品に金銀製首輪の猟犬骸骨 2体があったことを紹介しました。イザナギ系統の人が、付けたと思われる地名には、動物の名前が多いように思います。(近江の多賀大社がある多賀町は犬上郡です)
この犬ヶ岬は、行ってきました。残念ながら車で走っているので、海からはどのような形かわかりませんが、運転している前に山があるときは、三角形。過ぎ去ったときに、眺めた山もきれいな三角形でした。目標にするために、山を整形したと思われます。この岬は、大陸からやってくるときの目印だったと思います。
この犬ヶ岬の真南に、大江山(大山と関係あり?)があり、ここにアマテラスは、中国人の南下を防ぐために、ヒルゼンから遷都しました。アマテラスとツクヨミの死後、崇神天皇の妹の卑弥呼が、この地に皇大神社をつくり、アマテラスを祭っていましたが、難升米の人質になり、最後は殺されます。その後、戦争が繰り返され、最後に中国人が立て籠もった所が、鬼の伝説が残る大江山です。
アマテラスが出陣したということは、中国人が居たのですが、漢人だったのか、他の国の人だったのかは、判りません。
No59に示しましたように、紀元前150年の頃のことです。 


No65 中山王国の特徴 [日本の歴史]

No64 では、イザナギと関係ありそうなものだけ、ピックアップして見ました。
以下、イザナギとどのように関係あるのか記してみます。
(1) すべて銅で作る。また、鉄で作るのは、難しいことではないと思います。融点の異なる物質をつなぎ合わせるのは高等(5)編鐘 14点 周王朝の礼楽制度を取り入れたらしい。14個の編鐘は、小から大まで、すべて大きさが異なり、吊るすようになっている。
技術だと思います。それ故に、日本にやってきた他の民族のリーダーになれた。

(2) 銅鐸に書かれた絵がどうして、幼稚なのか理解に苦しむほどですが、この作品では、猿などは生き生きと作られています。図録の説明では、龍が二匹いるように書かれていましたので、そのように書きましたが、写真で見る限り、蛇と思われます。蛇を大切にしていたと思われます。ヒルゼン高原には、大蛇、蛇ヶ乢、加勢蛇川とあまり地名になじまない蛇地名があります。

(3) 三匹の虎がいます。日本には、虎はいませんから、虎の名前がつく地名は特別なものです。徳島県神社誌を調べますと、熊野神社が多いことがわかります。この周辺にイザナギの部下が派遣されました。初めての土地に行きますと、一番に高い山に登りますと、全体が判ります。一番に白狄人は、剣山に登って測量をしたでしょう。四国が4つの部分からなることを知り、そのことが古事記に記されています。測量の結果、真東にある山に、虎ヶ峰と名前を付けました。虎ヶ峰は剣山と熊野本宮を結んだ線上にあります。同じ線の上に高尾山(イザナギ一族の目印の山・きれいな三角の山)があります。この線上だから、虎の名前を付けたのでしょう。

(4) 黄玉佩には緒を付けるようになっています。古事記には、イザナギが着けていたことになっています。日本の墓からは、所謂玉が数珠のように繋がって、多数出土していますが、転載したものは、龍ですが、外に、人物・蛇・蛙・亀・虎・蝉・蚕・鳳の透かし彫りの玉器が沢山出土し、きわだった特色だと書かれています。

(5) 編鐘 14点は、14個であるところが、気になりました。現在の音楽は、ドレミファソラシと7つの音で成り立っています。明らかに、その倍の数です。形はやや異なりますが、銅鐸は、現在祭祀に使われたとの意見が主流を占めていますが、銅鐸が、14個で出土したところは、日本でも二ヶ所ありますから、大いにイザナギ族と関係があるように思われます。犬の生理は、7の倍数が関係あります。7で発情が始まり、14で終了。63で生まれます。犬の好きな白狄人は、当然知っており、その正確さには驚いていたでしょう。人の生理も7に関係がありそうです。彼等が、仏教を知っていたかどうか判りませんが、死んでからでも、7が関係してきます。
7は動物が、本来持っている正しいリズムかもしれません。

(6) 黒色陶器は、中山大国の特産物ではないそうです。
  解説書には、「原始社会の晩期の山東龍山文化遺跡からは、表面の黒く光る胎質の薄い一種の黒陶が出土している。河南省輝県の戦国時代の墓葬からも一群の黒陶器が出土した」とありますが、全く同じものかどうかわかりません。中山大国のそれは、美しい形、高い芸術性、精細な装飾文様がいずれのものより優れていると書いています。
  解説書では、制作課程も詳しく書かれています。ただ、問題は、「・・・それを更に加減し煙でいぶし焼きして制作したため、この種の陶器の表面は漆のように真っ黒くて光っている・・・、」とあります。いぶしたら、黒光りがするかもしれませんが、表面だけでしょう。割った中を知りたいものです。
  漆は実際に塗られていたのではないかとか知りたいことはいっぱいですが、それよりも大切なことは、これと同じものが、日本にもあるということです。
   津軽の亀ヶ岡遺跡と八戸市の是川の歴史資料館と南郷村の個人の資料館に存在します。こちらも、実物は見ていませんが、写真で見る限り、中山大国のものより、色が薄いですが、黒色陶器です。
  こちらは、葦の腐植土でできた土でつくると黒い陶器が出来るそうです。
  田村誠一氏は、イザナギが、中山大国から移民であるというだけでなく、津軽に住んでいた縄文人が、忽然と居なくなったときと、中山大国が建設された紀元前530年がほぼ、一致するから、縄文人は中国に移動し、遊牧生活をした後、中山大国のところで定住したと述べています。あまりにも、突拍子な考えですが、楽しいストーリーだと思います。それゆえ、「中山」という日本名となっていると。

(7)  金銀製首輪の猟犬骸骨です。 ペットブームの日本ですが、金銀の首輪をつけている犬はいるでしょうか? 犬が好きだったイザナギ一族は、あちこちに、「犬」がつく地名を作っていきました。隠岐には犬来と犬町。ヒルゼン高原には犬挟峠と犬畑。高原で最高峰の毛無山と同じ緯度で、近江の犬上郡があります。ここは、イザナギが、住んだところで、多賀神社があります。イザナギにとって、第二の都でした。 


No64 中山王国とはどのような所? [日本の歴史]

中山王国のことについて書かれたものは、探せばあるのでしょうが、当ってみた図書館ではありませんでした。インターネットでもありません。中国のインターネットでは、沢山出てきますが、残念ながら、読むことが出来ません。これから記すことは、1981年3月17日~5月5日まで、東京国立博物館で開催された「中山王国文物展」のときの冊子を参考にして、私が理解した範囲のものです。理解したつもりが間違っているかもしれません。そのつもりで、読んでください。
 
中国の古代の紀元475~紀元221年は、戦国時代と呼ばれ、戦争が繰り返され、戦国七雄(秦・斉・楚 ・燕・鞘・魏・韓)が、小さな国を併合していった。この戦国七雄のほかに中山国があった。その位置は 燕・鞘・斉の三国に囲まれていました。  北京のやや南東にあたるところです。
【中山国はもと中国の陳西北部にいた白狄人が春秋戦国時代に建てたものである、と歴史家は、一般に考えている。『世本』には、「中山の武公は顧に居し,桓公は霊寿に捗る」と書かれている。顧はつまり現在の河北省の定県であり,霊寿は現在の石家荘地区の霊寿県からあまり遠くないところにあった】と冊子には書いてあります。
白狄人とは耳にしないと思います。インターネットで検索しますと、自分のページが現われるぐらいです。展示された文物の中には、テントに使用する器具がありますので、元は遊牧民であったことが判ります。

中山王国の発掘に携わった筆者は、次のように述べています。【張家口地区の懐来や保定地区の唐県・曲陽・満城や石家荘地区の行唐.新楽.平山などにおいて,春秋時代(およそ紀元前6世紀末-前、5世紺まじめ)の中山国の遺跡や遺物の一部を発見したことがあるからである。
このことでわかるように遊牧を生業とする白狄の部族が春秋時代に西北部から河北の北部に到達するとともに、また北から南に向かって発展し保定や石家荘の一帯に定住して国家を樹立したのである。わたしたちはまた1974年から平山県の三汲公社一帯で,大規模な考古学的な調査.発掘を行った結果,戦国時代の中山国の王都であつた霊寿城の遺跡と何代かの王陵を発見した。そしてそのうちの二つの王陵を発掘した結果, 驚くべき成果をあげたのである。
  平山県は石家荘市から西北攫40キロの太行山東麓に位置する。その西部は山また山が連なる山間地帯,東部は起伏の多い丘陵地帯,中間にはフウトオ河が西から東に蜿々と流れている。ここは確かに山河のうるわしい、風景が絵のようなところである。河水が滔々と流れている南岸に立って北の方を眺めると,平野と幾つかの寸落を越えて,およそ10キロ離れたところに東西に相対している二つの峰が見える。これがこの土地で有名東霊山と西霊山なのである。またそれを林山とも呼んでいる。この地方の発音では霊」と「林」は同じ発音となり・二つの音を区別しにくいからである。二つの山の上には五代およびそれ以後の古刹や石窟があり、仏塔が林立し,そのうえ「望京楼」や「仙人洞」や「仙人棋盤」などの奇観もある。さらに奇異なのは西霊山の東の前方2キロの高地の上に,東西に並んで立っている二つの方錐形をした土丘である】
冊子には、東霊山と西霊山の写真が掲載されていますが、荒涼たる平原に、二つの山が並んで写っているだけです。こんなところに素晴らしい国があったのかと思うと、2500年という歳月が、人間の営みを、こうも変えてしまうのかと驚くばかりです。

ページ15に、どうして中山と名付けられたかを、次のように書いています。
 「中山国は、春秋時代に鮮虞と呼ばれ、その都城は現在の新楽県新城堡にあった。西周の時代にこの一帯に鮮虞と呼ばれる小国があり、白狄がこの鮮虞の領土を占領してその国名を受け継いだのであろう。中山という名称が最初にあらわれるのは『佐傳』では魯哀公三年、つまり紀元前492年のことである。都の中に山があったのにちなんで中山といわれたのだと言う。
冊子を読んでいましても判ったようでよく解りません。ところが、後に続く展示物の写真は、膨大で、しかも遊牧民族が使っていたものとは思えないものばかりのものです。
私が注目したものをいくつか紹介します。
(1) 鉄足大鼎 ---鉄足とあります。三本足で、鉄製です。肉などの材料が入るところは、銅製です。別々に作って、上に置くだけですと、簡単ですが、融解温度の異なるものをつなぐのは、どうするのでしょうか。そんなもの簡単だと一言で終わる気もします。先に、下の部分を作って、完成してから上の銅の部分を作ればいいことになります。先日、NHKのテレビで、大阪の鋳物師(?) さんが、銅鐸の製作を試み、大騒ぎをしている映像がありました。銅鐸どころのものではないと思われます。技術か格段上と思われます。
(2) 銀製頭部男子像燭代台---青銅・銀   通高66.4 重11.6kg
これこそ 写真を転載したいのですが、したら叱られるでしょうね。男子の背の高さは、20センチぐらいです。両手を横にのばし、竜をつかんでいます。ロウソクを建てる部分は、二ヶ所で、左手の竜は、横にのびて、途中から首を上にもたげて、男子の肩の辺りに、燭台があります。横に伸びている竜を、その下で、とぐろを巻いているもう一匹の竜が、首をのばして、横に伸びている竜を支えています。
右手の竜は、昇っていき灯柱に繋がりますが、そこに猿がいて、竜と戯れている構図になっています。最上階は、お皿の状態になっていて、そこにローソクが立てられます。男子頭部は、銀製ですが、髪、顔、着ている着物、宝石をはめられた目など、本当に精細に作られています。
(3) 十五連盞燭台
  全体は樹枝状に作られており、其の枝の先にロウソクを立てるようになっています。高さは80cmの小さなものなのに、その枝の上に、鳥が止まっていたり、数匹のサルが戯れています。中心と幹には龍。下にはサルにえさを与えている人がつくられており、サルには表情が見えますから、素晴らしいものです。日本では、銅鐸に線で鹿が描かれていると注目されていますが、文化の差を感じさせます。
(4) ? 龍形黄玉佩 (?の字は 草カンムリ+ナベブタ+真ん中に 百 左に正、右に犯の右の部分+その下に 変の下の部分  クイと読むらしい?)
 黄玉。長さ6.1 幅2.8 重さ9g
身をくねらせる龍。両面は雲文で飾られる。背に綬にかける孔がある。
古事記に、「御頚珠の玉の緒もゆらに取りゆらかして」という部分がありましたが、
上のようなものも、黄玉ということを知っていただくために掲載したかったのですが、写真をよう載せません。 黄玉佩とあります。
(5)編鐘 14点 周王朝の礼楽制度を取り入れたらしい。14個の編鐘は、小から大まで、すべて大きさが異なり、吊るすようになっている。
(6)黒色陶器 ---容器です。形は鼎、豆、壺、碗などですが、使われていた食器を模倣して死者の持ち物とした工芸品です。特徴は、表面を漆で塗ったように黒光りをし、装飾された模様は複雑で黒色陶器のなかでも王様であると解説されています。
(7)金銀製首輪の猟犬骸骨 2体
 シェパードぐらいの大きな犬で、埋葬者の愛犬であろうか。中国王国の犬は,北犬といわれ有名であったらしい。


中国石油天然ガス集団・買収 [政治経済]

 読売新聞 17.09.24朝刊に次の記事がありました。

中国石油天然ガス集団(CNPC)がカナダの石油大手ペトロカザフスタン(PK)を買収を発表した。約4600億円。この金額が、どれほどのものか私には判りませんが、これまでに
中国が海外企業を買収した金額では、最高額であると報じています。

中国石油天然ガス集団とは どういう団体でしょうか? 政府に所属しているのでしょうね。

9月9日に住金が乗っ取られる話しをかきました。書いたものの、数字に苦手の私は、計算をしなかったのですが、今日はは計算してみました。
簡単にできそうです。ご覧ください。

住友金属
 純資産   4832億円 
 発行株数  48億597万株
 一株資産  100円
  平成17年9月22日の一日の株売買高  144375千株(1億4437.5千株) 株価は314円、金額にして、439.6億円。中国が10日間、買い続けますと、4396億円
  この間、株価が上がるでしょうから、この通りではないでしょうが、半分以上買い占めることが出来ます。最大のメリットは、不足気味の電力は、日本の電気を使って鉄を製造できます。従業員は中国人を使用することによって、国内の人口問題の一助。製品のコストダウン。製品の中国への安定供給。倍の金額を出しても、メリットがあります。株価が倍になれば、株の売却によって利益の確保。どちらに転んでも損をすることはありません。
  話しが、中国にとって良すぎますから、私の上の計算は間違っているのでしょうか?

因みに、他のデーターも記しますと。
 資本金 2620億円 有利子負債 8859億円。 金融収支 -133億円
 外人比 10.3%  浮動株比 25.7%  配当利回り 1.6% 
 設備投資 609億円

東京製鐵 株価 1649円 発行株数 15506万株 
  平成17年9月22日の一日の株売買高 1396千株  外人比 26.5% 
  外人比は、住金の倍以上ですから、乗っ取られる可能性は大きいです。(?)

計算間違っていましたら 教えてください。

それがどうしたと言われそうですが、私が住金の社長なら、株価が上がるように工作します。
(そんなこと出来ないでしょうか・? 先日フジテレビはしました。)
鉄鋼各社がお互いに株を買うことになるでしょう。すると、株価はまだまだ 上がる?
私も中間に入れてもらう。


No63 イザナギとイザナミはどこから来たか [日本の歴史]

トップに、イザナギとイザナミが登場です。この二人は、どうやら、男と女のようです。夫婦か兄弟ということになります。
古事記を読みますと、セックスの話題があって、その結果、次々と島が生まれていく様子が語られています。どうやら、イザナギとイザナミは二人して、島を征服していったようです。だから、夫婦でも兄弟でもいいのですが、イザナミが死んだときに、黄泉の国までイザナギが追いかけて行った話しがあります。ここは、夫婦愛ということにしたく思います。
二人は、最初に、水蛭子と淡島を生んだと書いてあります。この二つの島は、イザナギとイザナミにとって、特別の島であったようです。水蛭子がよく判りませんが、未熟児であったということだと思います。失敗作であったので、旭川に流しましたということでしょう。古事記を読んでもらいますと、この部分の少し前に、オノコロ島が出来たことが記されています。ヒルゼン高原にある中蒜山の中腹に作った宮城の名前です。いつ作ったか判りませんが、次は淡島です。淡島は淡路島のことです。淡路島には、伊弉諾神社があります。どうやら、ここは、イザナギとイザナミが最初に征服したというか、安らぎを得るところになったのではないでしょうか? ここを中心にしていろいろの場所が決められています。太安麻呂は、そのことを知らすために、古事記では「こも亦、子の例には入りさせれき」と書いて、特別ですよと忠告しました。
その後に生まれた島が次々古事記に記されますが、これらは、部下に征服を任せたのだと思います。次に、征服したところは、淡道の穂の狭別島とあります。この頃は、島であったと思われますが、現在は島根半島とよんでいるところです。この後は、島の名前とまたの名前が書いてあります。例えば、伊予国は愛比売です。愛比売はイザナギと同じ人種です。熊襲国は建日別。このように別の付く場合は、イザナギと人種が違う人に、その国の統治を任せたと思われます。
イザナギとイザナミは、日本の殆どを手中に収めたと思われます。
この頃は、スペインがインカ帝国を数ヶ月で滅ぼしたように、瞬く間に、日本を制圧したようです。それだけ、文化の差が大きかったのだと思われます。特に、武器の差が大きかったのだと思われます。
 紀元200年ころに、秦の始皇帝が中国を統一します。統一とは、言葉は良いですが、その逆に、統一された人がいっぱいいました。統一された人は、元の場所で住むことが出来れば良いですが、当時は、徹底的に殺されたようです。秦の始皇帝の力はどれほど大きいものであったかは、西安や北京に行ってみれば、説明が要りません。兵馬俑や万里の長城が語ってくれます。それだけ巨大な国でも、その後、直ぐに滅びます。漢民族にとって代わられます。北は、匈奴、月氏国、中山王国、朝鮮がそうです。結論を先に言いますと、朝鮮の北のほうからやって来たスサノオ、月氏国からきたツキヨミ、中山王国から来たイザナギとイザナミ、呉の国から来た天照大神らです。
逃げてきた人たちの歴史は、逃げるまえの土地には、歴史が残っていません。やっつけた人たちが、やられた人達の歴史など知っているわけがありません。そういう意味からいいます中国や朝鮮には、本当の歴史は残っていないのかもしれません。
その点、日本の歴史は、幸いなことに、古事記に辛うじて残されていました。古事記を抹殺しようと人たちによって、大部分は消されてしまっていますが、復元は可能です。
イザナギとイザナが古事記に書かれている話を少し書いてみました。しかし、日本を作っていったことは、書かれていますが、中山王国から来たとは、書かれていません。中国は、東、西、北へと侵略を繰り返しました。日本へはこなかったと思っている人が殆どですが、日本へもいち早く来ていましたが、侵略をしても意味がありませんでした。日本人が作った絹を持ち帰るだけでよかったのです。西へ侵略したときは、侵略された人達は、どこへ逃げたか調べていませんが、その他のところで、消滅して記録が残っている人たちは、日本へ来た可能性が高いです。中山王国は、北京の少し北にあった国ですが、全滅で消えてなくなった恐れがあります。
次回には、少し詳しく書いて見ます。まず、中山王国とは、どのような国から、始めます。


No62 逃げてきた人たちが日本を作った [日本の歴史]

日本には、縄文遺跡はあちこちに存在します。最近有名になったものでは、青森の三内丸山遺跡があります。この遺跡は5500~4000年前の遺跡です。一度行かれると判りますが、この時代にすでに、高度な生活をしていたことが一目瞭然です。タイトルに伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉册尊(イザナミ)の名前を入れましたが、古事記に出てくるイザナギとイザナミを4000年も前の人たちとすると、日本史は無茶苦茶になります。それどころか天照大神(アマテラス)も、邇邇芸命(ニニギ)も、実際にいたことにすると日本史は成り立たなくなります。
この辺りは、すべて神話だということになっています。
 どの本を読まれても判ります。日本が始まって以来、すべて筋の通った歴史は誰一人として、示しておられません。それは当たり前のことです。他の国の歴史でもすべてそうだと思います。字を使った記録があってはじめて、確かなことであるというのが、現在の日本の歴史学会の捉え方です。
遺跡が発掘されていろいろのものが出土します。相当わかってきました。古墳時代ですと詳細に判っています。ところが古墳は、4世紀~7世紀の間という考え方は、確定しているようです。
だれも、おかしいとは思われないようです。群馬県で、古墳は8000ほど見つかっています。古墳時代の墓は、このうちいくつあるのでしょうか? こんな遠くでも、大和政権との関係で説明しようとされています。これから調べようとしている丹後も古墳の多いところです。よく丹後王国があったところと云われていますが、群馬県と同じくらいの古墳があります。そうであれば、群馬県にも、王国があったことになります。福知山市も古墳の多いところですが、隣の綾部市も多いです。綾部市に物部という町があります。町とはいうものの、殆ど、田と山ですが、ここには、1000を越える墓があります。現在の町から想像できないほどの人が住んでいたことになります。王国どころか、それだけの位の高い人が死んだことになります。凄まじいほどの戦があったことになります。何のためにといえば、決まっています、何かを奪おうとした人と奪われたくない人が戦いました。鳥取県もお墓の多いところです。岡山県は、大和に匹敵する大きさの古墳がいっぱいです。大和から命令されて、岡山辺りで部下が支配していたと考えるには、無理があります。
最近、大阪府羽曳野市東阪田で古墳時代前期(4世紀中ごろ~後半)の前方後方墳が見つかり、未盗掘の埋葬施設から三角縁神獣鏡1面をはじめ多数の副葬品が出土したと新聞報道がありました。旧地名から「庭鳥塚古墳」と命名されました。ここまでは、市教育委員会の発表です。
 三角縁神獣鏡が埋葬されていたことから、被葬者は大和王権とつながりがあった首長(豪族)とみられる。北約2キロには、4世紀末以降の大王墓(天皇陵)が集中する・・・。この部分は、新聞社の人が、専門家の意見を聞いてまとめたことになります。この記事の書き方は、殆どの遺跡に当てはまるものです。それほど、強力な大和朝廷とは、なにを手に入れたから、そのような強力な朝廷になったのでしょうか? なにも判っていません。
何故 古墳時代前期とわかったのでしょうか? 未盗掘ですから、相当沢山のものが出土したのだと思います。それらのものから判断できるのでしょう。前方後方墳であるから古墳時代前期としたのであれば、正しくないと思います。前方後円墳の前段階のものが、前方後方墳と決まっているのであれば、ほぼ間違いないでしょうが、古墳の形は、墳墓を作った人種または、宗教によって異なるものでしょう。前方後方墳は、円墳より後に出来たものとは限りません。普通、犬や猫のお墓を作るときに、誰も四角形には作りません。円形は基本です。方墳は、人種が違うのでしょう。甕棺、石棺、木棺、陶棺、違う人たちと考える方が正しいと思います。石棺だけでも、いろいろありますが、同じ種類ですと、少なくとも同じ系統の人と判断してもいいのではないでしょうか?
長いこと掛かりましたが、私の云いたいことは、日本人が5000年前からいて、その人たちが代々、現在まで続いて生きていると考えるのは、間違っているのではないかということです。ずっと、続いているのであれば、人間必ず工夫をしますから、次第に高等なものになるはずです。土器もそうです。次第に複雑なものになり、便利なものになるはずです。土器は進歩しても知れています。複雑になりようがありません。もし、複雑であれば、暇が多かったから、ひねくり回していたら、複雑な土器ができたと考えた方が当たっています。住民がころっりと入れ替わりますと、違った土器になるはずです。となりますと、どの層から出土したかということが基準になります。現在の地表の近くにあるほど、現在の年代に近いことになりますが、必ずそうであるとは限りません。同じ種類の土器がどの地方で使われているかを調べる方が、その人たちがどのように移動したか推察することが出来ます。
このように考えますと、どのような種類の人間が日本には、住んでいたかを考えることが必要になります。
例えば、ヒルゼン高原には、山をセンと発音する人たちがいたことが、山の名前から判ります。では、どのような人が住んでいたのか、何からでも推察することは日本史を知るには必要なことです。古事記に書かれていることは、神話だといわないで、実話であるとして、考えてみることです。 


日本の石油は中国のもの [政治経済]

9月9日 「日本の製鉄所は中国のもの」と題して書きました。何分、素人ですから、よく判らなかったのですが、今度は、読売が、今日の夕刊に「中国、ガス田生産開始」と一面トップに報じていますから、よく判ります。
日中中間線のラインから、3Km 中国寄りで、「天外天」と名づけた掘削施設から炎が出ているとだけ記事にしています。地底からガスが噴出したことになります。そのガスに火をつけたということでしょう。ガスに引き続き、石油が普通は出ることになっています。出たガスは、その内にしぼんで、出なくなるかもしれません。地底では、石油の層が日本の領土に繋がっているかもしれません。当然、中国が石油の生産を始めますと日本の石油は、当然中国のものになります。
そんなことを判っていたのに、日本政府はなにも処置をしていませんでした。これから、どうするか協議をすると新聞は報道しています。政府が抗議をしないのであれば、報道機関が抗議の社説を書く所ですが、なに一つ書いていません。日本の報道機関は、中国と朝鮮には、弱いですね。一言もよう言いません。

もう手遅れですね。早めに抗議しても言うことを聞かない中国ですから、言うことをきくとしても、是までに掛かった費用の賠償を言ってくるでしょう。
石油と鉄は、中国の生命線です。これから、益々、拘るはずです。

鉄鋼株は、9日8日以降、毎日上昇を繰り返しています。今日の住友金属の出来高は、130398千株です。株価は、312円です。全体の出来高は32.7億株です。売買代金は、23482.88億円です。なんだか 数字が多すぎて、頭が回転してくれません。
この商いで、株やさんには、どれだけのお金が入ったのでしょう。政府はなにもしないで、売り手と買い手の両方から税金を取ります。
でも、羨ましがっている必要はありません。
私は8日と9日に1000株ずつ買って、80000円ほど獲得しました。

例えば、住金の工場がある和歌山では、住金がつぶれますと、町への影響は大です。一軒あたり、1000株だけ資産株として持ちますと、相当な株数になります。誰かが買い占めようとしても、株を売らなければ、買えません。株価が、上がるほど買占めは出来なくなるのですから、皆で売り買いを繰り返すと、政府・証券会社・個人も手に入れる金額が増えます。なんだか 良いことずくめのようですが、どこか間違っていますか?
確かに、株価がいくらでも上昇することはありませんが、低すぎると乗っ取りの可能性が生じます。
理屈はよく判りませんが、中国には、相当ひどいめに合う様な気がします。

住金・新日鉄の株価は、500円ぐらいにならないと、中国にやられるでしょう。そうなると、トヨタは中国から鉄を買って、自動車を作ることになりますから、トヨタは自動車の値上げをするしかないでしょう。いつまで、傘下の工場ばかりにしわ寄せすることは出来ないでしょう。そのときは、仕方がないから、国民全員で痛みわけということになります。日本人は、これが得意です。誰も文句をいわないでじっと、我慢をします。

私は、我慢はしたくありません。 でも、仕方がないか!!  私は日本人ですから。


No61 隠岐島に逃げて来た人たち [日本の歴史]

島根県の沖に隠岐諸島があります。大きい島は本州に近い島前と遠い島後の二つです。島根半島の海岸から島後の中心までおよそ75kmあります。
中国や朝鮮を出た船は、なにもしないでいますと、対馬海流に乗ることになります。対馬海流のスピードは、0.4~0.8ノットと云いますから、時速/kmに直しますと、700m~1400mぐらいのスピードで流されます。中国も海南島辺りを出発しますと、九州に到達できますが、朝鮮半島から出発しますと、よほど頑張って漕ぎませんと、島根半島から隠岐島に到達するようです。

さて、どれぐらいの人が、この狭い島にやってきたのか判りません。少なくとも言葉は通じないし、食料はそれほど多くあったとは思えません。どうして仲良く住んだか想像するしかありませんが、田村誠一氏が考えられたのは、此の島は、入り江が多く入り江ごとに生活ができたのではないか、漢人にやられた者同志も考慮してもいいのではないか。その内に、隣の集落との交流ができ、少しずつ言葉が通ずるようになり、日本語の原型は、ここで出来たといっておられます。調べてみる値打ちのあることでもあり、可能性があれば、隠岐諸島に、難民であり日本人の祖先である人たちがやって来たことになります。
 なにを根拠にそのような仮説を述べるかといいますと、この狭い島に神社の数が多いことです。しかも、その祭神が、古事記に載っている神、他に珍しい神が多いことです。全部107社が存在していた記録(資料1)があります。
例えば ニニギが高天原から、降臨するときに、天のヤチマタにいてニニギを出迎えた者がいました。猿田毘古神です。どうして、こんなところにいるのかと尋ねますと、天つ神の御子が天降るというのを聞いたと返事をしています。猿田毘古神は、近くにいたことになります。隠岐島の神社(資料2)を見ますと、布施村と中村あたりにいたことになります。
次に、鳥取県の神社を眺めていますと、ここに住んでいた人たちが、鳥取県に移動したことが想像できます。猿田毘古神は鳥取の前田神社に祭られています。長田神社や卯垣神社には、表記が異なって猿田彦神の名で祭られています。この近くにいたのでしょうか?
ただ 猿田彦神は高知県だけで50以上の神社で祭られていますから、これほど単純ではないかも知れません。
資料1
 私の所持する資料は、次の文章で始まっています。
「神名帳と神社  隠岐島民は、敬愛愛国の思想に富み、神社を崇敬するの風あり。古来、有名な神社多く、延喜式神名帳に掲載せられたるもの、十六座に及び、就中、「名神大」と註せられしもの、知夫郡由良比女神社(ユラヒメ)、海士郡宇受加命神社(ウズカノノミコト)、同郡伊勢命神社の四座を有し、出雲国百八十七座中、大社二座、因幡国の五十座中、大社一座、伯耆家石見の大社無きに比し、隠岐の孤島にして、十六座中、大社四座を有するは、実に畏敬と謂わざるべからず。殊に、上古は、朝鮮半島交通の要路に当り、平安朝以来は、新羅来寇の衝に当たれるを以て、屡、勅を下して、異国調伏の祈願あり。神階授与の事、亦屡、国史に見えたり。朝廷に於いては、当国の辺要防備に就きて、常に、意を用ひられたる事亦知るべし」
少なくとも、天皇の勢力が強いために、伯耆は、式内社 が4社しかなかった時代に、16社もあったのですから、いかに、藤原氏がこの島を重要視していたかがわかります。
以下、107社 の神社 です。
 隠州視聴合祀に見えたる神社

  周吉郡 四十八社 内式内社四社
正一位   玉若酢大明神(式)    従一位  和気能酒大明神(式)
従一位   日野責大明神       従一位   奈伎良姫大明神
従一位   荒雄大明神        従四位上  那久保根明神
従四位上  兄玉姫明神       従四位上  市倉明神
従四位上  盾鉾明神       従四位上   飯田明神
従四位上  豊雷明神        従四位上   大国玉明神
従四位上  阿良根明神      従四位上   志都夜明神
従四位上  伊勢明神      従四位上   出雲明神結
従四位上  酒久美明神     従四位上    蟲神明神
従四位上  豊酒屋姫明神   従四位上   志都屋明神
従四位上  雀雄明神      従四位上   茅玉明神
従四位上  賀茂奈比明神 (式)   従四位上   高屋都明神
従四位上  阿太屋姫明神     従四位上   母呂爾雄明神
従四位上  禰都加彦明神    従四位上   海岐都爾明神
従四位上  伊志姫明神     従四位上   東山明神
従四位上  那岐良姫明神   従四位上   佐智禰雄明神
従四位上  阿佐遅姫明神   従四位上   妻屋姫明神
従四位上  布施山明神      従四位上   酒?明神
従四位上  久志果世明神   従四位上   水祖明神 (式)
従四位上  大雄明神      従四位上   住吉明神
従四位上  形太明神       従四位上   八田姫明神
従四位上  王子明神     従四位上   辰如明神
従四位上  里趣明神      従四位上   西里明神
従四位上  宇敷明神       従四位上   打羅明神

穏地郡 二十八社 式内三社
正一位  天健金草大明神(式)   正三位  下国関字
正三位  ?如本若酢明神     正三位   水祖明神
正五位上  木梨明神        正五位上  多太?
正五位上  王子 欠        正五位上  藤姫明神
正四位上  水若酢明神 (式)  正四位上  直之明神
正四位上  阿久姫明神      正四位上  水 カケ
正五位上  峯 津 神       正五位上   田方屋神
正五位上  炊屋姫       正五位上   高田神
正五位上  菊之神       正五位上   加 カケ
正五位   黒田彦明神    正五位上   伊未自姫明神
従五位上  伯彦明神      従五位下   山 之 神

  知夫郡(チフリ) 十五社
従一位   天佐自彦大明神(式)   従三位  海原明神
従三位   真気大明神 (式)    従四位上  柴木彦明神
従四位上  奈取彦明神       従四位上  云海彦神
正四位上  都玉貴神        正四位上  和太酒明神
従一位   比奈麻治姫大明神   従三位上  大山明神
従三位上  由良姫大明神      従四位上  呼乗彦明神
従四位上  熊岐姫明神       従四位上  豊加姫明神
正四位上  奈酒彦明神

  海部郡(アマ) 二十一社
従一位  奈伎良姫大明神      従一位   予酒賀大明神
正二位  直太明神         正三位上  海 原 神
正三位上 奈酒彦神         正三位上  健酒佐雄明神
正四位上 国 至 神        従四位上   欠
正四位上 大 胖 神        従四位上   穂々美明神
欠     泊姫明神                    小山彦神
欠     朝露明神        従四位上   御佐々明神
欠     多気明神        従四位上   禰 多 神
従四位上 日忌明神         従四位上   毎吉?島神
従四位上 柳井姫大明神       従四位上   大 刀 神
従四位上  従四位上
合計 107社

同書云、下西惣社に、「隠州神名帳」と号くる一巻あり。何人の記す所になるか知らず。されど、見るに随い之を記して、以て、博覧に備ふ云々と附記せり。
資料2
隠岐島の神社      一部            大正元年十二月現在
水若酢神社  五箇村大字郡    水若酢命
玉若酢神社  磯村大字下西    玉若酢命  
                  合祭 須佐之男 稲田姫命 須勢理姫命
                     事代主命 大己貴命
水祖神社ミオヤ 西郷町大字下西   不詳
                  合殿天満宮祭碑 菅原道真
伊勢命神社  五箇村大字久見   伊勢命 
宇受賀神社  海士村大字宇受賀  宇受賀命
由良比女   浦郷村       由良比売命  
諾浦神社ナギ 西郷町大字中町   口碑 奈伎良命   
御崎神社   西郷町大字東町   不詳
東山神社   西郷町大字西町   不詳
御埼神社   西郷町大字西町   不詳
浦宮神社   東郷村大字東郷   不詳
小田神社   東郷村大字東郷   応神天皇
飯田神社   東郷村大字飯田   不詳
津井神社サイ  東郷村大字飯田   不詳 口碑 誉田天皇
三保神社   東郷村大字犬来   事代主命
森 神社   東郷村大字釜    不詳 口碑 伊弉册尊
大久神社   東郷村大字大久   誉田別命 伊弉諾、伊弉册尊
春日神社   布施村大字布施   天津児屋根命
白髭神社   布施村大字宇敷   猿田彦命
白髪神社   布施村大字飯美   猿田彦命
一之森神社  中村大字中村    月夜見命
湊村神社   中村大字湊     菅原道真
池田神社   中村大字西村    不詳 口碑 天日神
月下神社   中村大字西村    不詳
山口神社   中村大字元屋    猿田彦命
元屋神社   中村大字元屋    不詳
熊野神社   中村大字伊後    伊弉諾命
西宮神社   中村大字伊後    不詳


中国とは どのような国? [政治経済]

「反日に狂う中国  友好とおもねる日本」
金 文学著

一昨日、上記の本を購入しました。
著者の略歴を裏表紙から、転載しておきます。
 作家、比較文化学者。
1962年、中国瀋陽で韓国三世として生まれる。
1985年、東北師範大学日本文学科卒業。6年間大学講師を勤め、
1991年来日。同志社大学大学院で修士課程を修了。
1994年から同大学文学部客員研究員。
2001年広島大学大学院博士課程終了。
 現在、呉(くれ)大学社会情報講師。

どうして、はじめから略歴を書いたかといいますと、著者は、中国と韓国と日本をバランスよく身体で知っておられる上に、三国の歴史を勉強しておられます。

内容を簡単に記しますと、中国と韓国は、現在のようなことをしていると、国が益々駄目になります。韓国人の血を持っておられる著者は、韓国を憂い、長く生活した第二の故郷中国の今後を憂い、そんな中国と韓国にしているのは、日本人だと述べておられます。

27ページには、次のように書いておられます。
中国人は誰もが口を開けば、日本人のことを「小日本」とか「日本鬼子」と呼びます。この二つが日本人を呼ぶ時の定番になっています。高い学力を持つ、インテリ、エリートであれ、田舎のおばあさんであれ、幼稚園のアヒル組であれ、この定型句がごく一般化しています。
「小日本」は文字どおり、「小さい島国の日本、日本人」ですが、大陸の文明大国、高等で絶対理念の文化を持つ、偉大な中国に対して、属国で亜流に過ぎない小さな国(倭国)という意味を含む蔑称です。
「日本鬼子」は、その倭国に住む人間ではない、野蛮きわまる「鬼」という意味で、日本に対する侮蔑表現の典型ですが、しかし、面白いのは、中国ではあまりにも日常的な丹後となってしまっていて、ほとんど侮蔑語ということすら忘れられていることです。
 
この文を読んでどのように思われましたか? 
金 文学氏の文章は、こんなものでは収まりません。読んでいて嫌になるほど書いています。それが日本人も今まで、何回も言った人がありますが、そういう人は、軍国主義者だと日本人自身が押さえ込んできました。

私は、どうでもいい古代史ばかり、調べていて、近代史は全く知らなかったことを知りました。そこで、その原因を直ぐ、他人の責任に転嫁しました。日本の新聞社は、どうして、この本の一部でも報道しなかったのでしょう。それどころか、南京の30万人虐殺などは、実際にあったことだと報道しています。報道すると中国や韓国に入国できなかったからでしょうか? 

この本に書いてあることが、正しいとは限りません。しかし、日本政府は、国費でもって、この本を買い、各家庭で読んでもいいと思います。そして、それを基にして、日本というものを見直してもいいのではないかと思いました。

祥伝社 定価は1600円です。


No60丹後半島の中国人 その4 [日本の歴史]

イザナギは、死んだイザナミを慕って黄泉の国まで追いかけて行った事になっています。黄泉の国という考え方が、何時からあったか調べていませんが、古事記が書かれたときは、すでにあったようです。古事記には、はっきりと「黄泉国に追いゆきき」とありますから。
ただ、この様子が書かれた部分を読んでみますと、判るようで判りません。ぼんやりと天国、地獄といいますと、よく絵にも描かれているものを目にしますから、なんとなく想像し、納得しますが、黄泉国はよく判りません。黄泉国は死の世界のようなことが書いてありますが、死の世界にイザナギは行って帰ってきたことになります。
黄泉国は、死の世界ではなく、死期を感じ取った人が、黄泉国に行って死を迎えるのではないでしょうか?  
以前に、インドの田舎から、死を迎えるために、家族揃ってイタンダス川のほとりに行った家族の映像がありました。最高の死に方らしいですが、お金がかかるため、裕福な人しか実現しないとのことでした。映像の方は、一ヶ月経っても死ぬことが出来ず、お金が無くなって自宅に帰ったとありました。中国でも、お経を唱えながら死を迎える老人の姿がありました。この人の場合は、黄泉国に行くのではありませんが、死を迎えるという行為は、現在でも行われていることです。このように考えますと、イザナギとイザナミがどこからやって来たのかの推理に役立ちます。
 是までの話しは、どうでもいいのですが、その後が面白いのです。イザナギは、穢れたものを見たので、禊ぎ祓いをします。船戸神以下12人の神さんが、手伝うことになるのですが、禊をするには、きれいな水が必要です。このような都合の良い行為は、元々、日本人がもっていたものでしょうか? 塩で清めるのもあります。このような方法は、ユダヤ人にあるそうです。
廻りくどいことを二つ書きましたが、古事記の作者は、このような事が判る人たちだったのでしょう。そして、この部分を挿入して禊の場所で、アマテラスとスサノオとツクヨミの三人が生れたと書きました。勿論、本当に生れたのではないのですが、書いてある通りに読みますと、アマテラスは左目から生れ、右目からツクヨミ、鼻からスサノオがうまれたとありますから、これは神話だということになります。太安万侶は確かに、三人を登場さすために話しを作ったのですが、実際にあった話ですから、禊をした場所には、神社 が存在し、古事記に登場する底津綿津見神などが祭られています。アマテラスとスサノオとツクヨミの三人とイザナギ・イザナミの出会いがあったことが、古事記に書かれています。

解って頂けましたでしょうか?  言い換えますと、古事記に書かれていることは、神話で実在しなかったことと思われていますが、実際にあったことなのです。さて、そのイザナギはヒルゼン高原にある高天原を三人に任せて、滋賀県の近江八幡の多賀に移ります。現在多賀神社のある所ではありません。琵琶湖につきでたところに長命寺という寺がありますが、その近くです。白狄人であったイザナギの白と王さんから字をとり、白王という地名が残っています。
三人には、イザナギから役割が与えられるのですが、イザナギが多賀へ行くや否や、スサノオが高天原を乗っ取ろうとします。危険を感じたアマテラスは、天岩戸に避難します。
この時、すでに、ツクヨミに対して、京都の夜久野統治命令が下っています。何のためにということになります。この後、ずっと後になって、アマテラスが京都の福知山と大江町へ再三出掛けて、大江町で死亡しました。
福知山の北には、丹後半島があります。この地に漢人が進出しており、彼等の南下を防ぐために、ツクヨミとアマテラスは高天原から移動したことになります。
頃は紀元前180から170年のころと思われます。
 急ぎ足で、丹波・丹後の漢人のことを記しました。きっと、はじめて聴かれることだと思います。あまりにも、展開が速いので、なんのことか解らなかったと思います。もう一度、元に戻って、一つずつ解明していこうと思います。


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