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No51 吉野ヶ里遺跡とは どのような遺跡か [日本の歴史]

これが困ったことに、インターネットには、いっぱい掲載されているのに、考古学の資料らしきものは、殆どありません。見つけたものだけ紹介します。

有明海の北東に広がる平野は、九州で一番広い平野で、筑紫平野と呼びます。真ん中を流れる筑後川は、福岡県と佐賀県に分けています。福岡県の方を筑後平野、佐賀県の方は佐賀平野といいます。
吉野ヶ里遺跡は、二本の川に挟まれて形成され、右は田手川といい、遺跡の中を抜けています。
有明海から、筑後川をさかのぼり、村の中心まで船は来たと思われます。
その根拠は、弥生時代の初めは、海水が現在より、上の方まできていたと思われます。その上、有明海は潮の満ち干の差が大きいので、満潮時は吉野ヶ里の近くまで、海水が来ていたと思われるからです。吉野ヶ里遺跡の南側の町は千代田町です。この辺りは標高4mのところが多いですが、この辺りが海岸線と考えています。千代田町では、沢山の貝塚が発掘されていますから、この貝塚遺跡を線で結びますと一応海岸線がわかりますが、吉野ヶ里遺跡は600年以上続いていましたから、当然、次第に現在の海岸線に近づいたはずです。この辺りまで海が来ていたことになります。
 佐賀平野では、クリークと呼ばれる堀が奈良時代にはあったといわれ、いかに排水をするかと洪水から守るかの歴史だったと思われます。弥生のころは、筑後川近くは、あまりお米はとれなかったのではないでしょうか? それゆえ長年の努力で、干拓も早くから行われ、現在の日本有数の穀倉地帯を生んでいます。
それでは、遺跡の中を、見ていきます。
環濠---その後の研究で、どこまで判っているか知りませんが、平成元年の資料では、吉野ヶ里遺跡は、弥生前期には発生していたようです。有名な環濠は中期には出現し、そのまま利用され後期まで使われたようです。二本の川が、堀の役割をしていましたが、それでは防護が不十分であったことが解ります。弥生後期になると内濠をつくり、主要と思える大きな建物がこの中に作られています。外部からの襲撃に対する防護ですが、なにを誰から守らなければならなかったのでしょう。
前期に住んでいた所へ、環濠を必要とする人種が弥生中期に入ってきたのかも知れません。たくさんの人骨が出土していますから、人骨の比較研究は、ぜひ必要とするところです。

甕棺墓、土コウ墓、箱式石棺墓---この遺跡の特徴は、墓だと思います。二つの甕を合わせた中に、座った姿勢で埋葬されています。数は少ないですが、そのまま埋める土コウ墓、箱式石棺墓もあります。近畿地方でも存在しますが、一つの遺跡で坡、その数が10基というように少ないですが、吉野ヶ里では、すでに2000基の甕棺墓が発掘されていますが、最終的には、15000基はあるだろうといわれています。
 何分600年間という長い期間ですから、その数は多いのでしょうが、他の遺跡に比べて多すぎます。仮に、一人の人の寿命が40年としますと、100年に2.5人の人が死ぬことになります。600年ですと、15人の墓が必要です。15000基あるということは、1000人の人が、600年間住んでいたことになります。
遺跡の広さは、25ヘクタ-ルあります。その一部を歩きまわりくたくたになるほどですから、1000人が住むには十分ですが、問題は食べるものです。と同時に、排泄物の処理が調査されていません。
排泄物の処理施設がない、食料が少ないとすれば、1000人は住んでいなかったが、出入りする人が多く、そのためにお墓が多いのかもしれません。   H16.08.06
  この遺跡は、丘陵地ではありましたが、湿地帯であったためか、竪穴住居ではなく、掘立て柱の建物で、常時生活していたのは、100軒ほどであったと考えられています。一軒に10人としますと、常時1000人ということになりますが、600年続いた居住地に、常時100軒というのは、はい、そうですかとは思えません。
物見やぐら---大きな6本の柱があったことと、魏志倭人伝に楼観のことが記されていること、そして奈良の唐古・鍵遺跡の土器に物見やぐららしい線の絵があったので、物見やぐらが復元されています。三内丸山遺跡にも、大きな6本の柱跡があり、こちらの方はあまりにも大き過ぎる為か、物見やぐらではなく、6本の柱を立てたものとなっています。案外、有明海に入ってきた船が、そこからでも見えるように、目印の構築物だったかもしれません。
意地悪いようですが、復元は、なかなか難しいところがあります。
高床式倉庫群--高床式倉庫が一塊になってあります。高床式であるということは、湿気を防ぐのとネズミなどからの被害を防ぐためでしょう。この倉庫群は環濠の外にあります。大きさは、他の遺跡に比較して、3倍ぐらい大きな倉庫だそうです。

その他の出土品
〔1〕出土品の最初に人骨を取り上げるのはおかしいですが、これは、一番にしたいです。ところが、データーがありません。現在発掘されたものが、まだ一部だということです。発掘初期で甕棺墓2000基、と350基の土コウ墓・木棺墓・石棺墓。そのうち、約300体の人骨が出ています。有名になったものは、頭骨のないものや傷をおった人骨ですが、ある本には、揚子江の南の江南地方の人の骨と似ていたとあります。300すべてを調べたわけではないでしょうが、重要なことだと思います。
〔2〕鏡
   漢式鏡7面前漢鏡〔3〕青銅器鋳造鋳型
   盾の飾り金具や魔除け、まじないに使われていたといわれる巴形銅器。およびその  
鋳型片の出土。
〔4〕朱塗りのかめ棺からガラス製菅玉79個
〔5〕 絹織物--かめ棺に付着していた絹布片に、国内最古の錦織りの技法が用いら  
れていたことが、京都市の古代染色研究家前田雨城氏の科学分析で分かった。
   分析によると、絹片には先に確認された貝紫(かいむらさき)による紫や植物染  
料の茜(あかね)を用いた赤のほか、だいだい、深紅、青、緑など七、八色の染色糸を使用。技法も八枚の布を織り重ねるなど、際立った技術が見られるという
〔6〕甕棺の副葬品としては、従前の出土品をいれると漢式鏡7面のほか、銅鏃、鉄刀、鉄剣、鉄腕輪、鉄斧、貝製腕輪、ガラス製玉など多くの副葬品が出土している。


No50 吉野ヶ里の周辺遺跡 [日本の歴史]

吉野ヶ里遺跡は、北に背振山地と東南に筑後川にはさまれた地形にあります。
すぐ北に、
 三津永田遺跡、二塚山、検見谷遺跡
少し、離れて北に
安永田遺跡、千塔山遺跡があります。

①三津永田遺跡---佐賀県神埼郡背振村にあり、吉野ヶ里遺跡の北方の段丘上にある。検出されたものは、甕棺墓と箱式石棺墓。墓からは人骨とともに、青銅器や鉄器、貝釧、ガラス製品。特筆されるものは、連弧文清白鏡や四?鏡を含む5面の漢式鏡が副葬されていた。

②二塚山遺跡----- 佐賀県三養基郡上八村にあり、吉野ヶ里遺跡の当方に位置する。弥生前期末から後期にわたる甕棺墓、土コウ墓、箱式石棺墓などがみつかり、鏡、貝釧、ガラス小玉、管玉が出土。鏡は連弧文清白鏡や獣帯鏡を含む4面の漢式鏡と小型ホウ製鏡です。

③検見谷遺跡------佐賀県三養基郡北茂安町にある。一括埋納された銅矛は12本中10本が研ぎ分けによる綾杉状の装飾を持っている。同じような例は島根県荒神谷遺跡から出土した16本の銅矛のうちの4本にも認められる。おそらく国産化段階に至って大型、祭器化した武器形青銅器に、武器らしい威厳を持たせるための工夫の一つではないかと思われる 

④千塔山遺跡------佐賀県三養基郡基山町の台地上にある。弥生中期から後期にかけて営まれた集落内の住居跡から青銅鋤先が出土している。そのほか41軒の住居跡や8棟の掘立柱建物か確認されている

⑤安永田遺跡----佐賀県鳥栖市安永田にある。弥生時代中期後半から末までの遺跡。出土したものは、石製銅鐸鋳型片(横帯文)・砥石・石製銅矛鋳型片・鞴羽口片・3m×4.5m方形炉跡状遺構

このように並べて書きますと良くわかります。①と②は漢式鏡が出土しています。漢式鏡をお墓に入れる風習があった人達が住んでいました。③④⑤は、青銅に関係ある人達です。⑤は銅矛の鋳型が出土したということは、銅矛を作っていたのでしょう。

三津永田遺跡と二塚山遺跡と検見谷遺跡は東西一直線に並んであります。三津永田遺跡と二塚山遺跡は、漢式鏡が出土した遺跡です。この二つの集落は、吉野ヶ里遺跡の家来か同族で、吉野ヶ里遺跡を守るために作られたような集落です。検見谷遺跡は、守る役目と銅製品の工場であったように見えます。  この三つの遺跡を含めて吉野ヶ里ではないでしょうか?


NO49 吉野ヶ里は漢人の拠点だったか [日本の歴史]

魏志倭人伝という中国の歴史書があります。書いた人は、陳寿という人で、233年~297年の人です。中国が魏と呼ばれていたときの正史です。倭人が日本人のことであると仮定しますと、この頃の日本のことを書いた書物と考えていいと思います。
魏志倭人伝のはじめに、「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者あり、今使訳通ずる所三十国」という文章があります。帯方は今のソウルあたりで、中国の県の一つです。以前は百余国あったが、現在は漢人の言うことを聞く国は三十国である。この解釈は間違っているという人があると思いますが、ユダヤ人が紀元前から日本に来て、絹を中国に運んでいたと仮定しますと、中国人が、黙ってみていたと考える方がどうかしています。中国人も侵出して日本を手中に収めていたと考えていいと思われます。
中国の天山山脈の南側にあったクチャという町は仏教心の強い文化の発達した国でしたが、常に匈奴と中国に襲われました。その後、紀元前109年に、衛氏朝鮮は、中国に侵略され、現在の朝鮮の大部分を占領され、楽浪郡・真蕃郡・臨屯郡・玄莵郡の四郡に分割されました。武帝が死んだ前87年までに、中国が日本に食指を動かさなかったと考えることは、間違っています。
魏志倭人伝にもう一つおかしい記事があります。
「兵器は、矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹ヤリ或は鐵鏃、或骨鏃である」
この記事は紀元240年ころのことです。吉野ヶ里のホームページによれば、この遺跡は、紀元前3~2世紀に始まって、3世紀ころまで続いたように記されています。出土物には、鉄や銅の武器があり、弥生前期の環濠の中から見つかっています。ということは、始めは村の規模は小さかったかもしれませんが、初めから防御施設の環濠を持っていたことになります。しかも、紀元前200年頃に、鉄器があったと考えていいことになります。木製品しかもっていなかったと魏志倭人伝にかかれていたのが、240年頃ですから、明らかに、日本人ではなく、中国人だったと思われます。銅剣に巻きつけられた絹も見つかっており、一般の人とおもわれる甕棺のなかからも絹が見つかっています。絹は権力者だけではなく、一般の人でも使われていたのでしょう。
銅鐸も見つかっています。滋賀県などで見られるような大きなものではありません。祭祀に使かったのだろうと説明が入っていますが、吉野ヶ里が仮に漢人であれば、彼らは、銅鐸を使わなかったと思います。フイゴと取り瓶は、いずれも弥生時代前期の環壕から見つかっています。また、青銅器の材料のひとつである錫が見つかっており、分析の結果、高純度の錫であることが判明しています。吉野ヶ里遺跡では様々な鋳型が見つかっており、弥生時代における青銅器の一大鋳造センターであった可能性は大きいです。また青銅器の鋳型には、石英長石斑岩という貴重な石材が用いられており、石材の表裏と両側面を加えた四面を利用したものがある。


No48 神武天皇は何をしに、豊の国へ [日本の歴史]

なにをしに行ったのかわからないということで飛ばそうと思いましたが、考えてみることにします。岡田宮が若宮町の山口にあることが判りました。境港の日向を出発した神武は、豊の国の宇沙に立ち寄りました。現在の行橋市ではないかと思います。この地はかつて京都郡といわれた所で、調べていませんが、何時の日か、都であったのでしょう。都にする立地条件を備えていたと思われます。気になる所です。
神武はこの地を通過する許可を得るために行ったのでしょう。日本書紀には岡水門へ行ったと記録されていますが、古事記には、岡水門へ行ったと書いてありませんので、岡水門には行かなかったのでしょう。神武は宇佐に立ち寄らずに、はじめから遠賀川の河口の岡水門を通過して遠賀川を遡ればいいのですが、岡水門は敵の勢力地で通行できなかったと思います。
岡水門の近くの芦屋町と水巻町の役場に、メールで紀元前20年頃の様子を教えてくださいとお願いをしました。芦屋町から送っていただきました「芦屋 郷土史を歩く」によりますと、当時、町の大半は海であったらしく、弥生・古墳時代の遺跡は多くありません。山鹿夏井ヶ浜で昭和45年、箱式石棺が発見され、四世紀ごろの古墳時代のものとあります。なぜ四世紀ごろの古墳か根拠が書いてありません。鉄剣や工具類が出土とあります。弥生時代の中頃には、日本人は刀剣を持っていなかった。(魏志倭人伝に書いてあります)
芦屋側では、大城の台地に、五・六世紀のものと思われる円墳があり、横穴式石室の石組みは、町役場の東側の丘に移築されていますと記されています。これは、横穴式石室ですから、六世紀でしょうか? 私は二世紀頃ではないかと思っています。葬られた人が、漢人であれば、鉄剣や工具類装身具が出土してもなんら不思議ではありません。このような古墳がゼロであれば、漢人はいなかったことになりますが、遠賀川に漢人が流れ着かなかったと考える方が、不自然です。岡水門の近辺で漢人が勢力を持っていたと考えるのは、資料が少なすぎますので、暫く置いておきます。

神武は長峡川または、今川を遡って直方市に出たのではないかと考えています。長峡川のほうが、田の字の付く地名が多いので、この川を遡り香春町を通り、直方市まで出たと思われます。また、このコースには、現在の地図に新仲哀トンネルとか仲哀焼という表示が見えますので、仲哀天皇と関係があるのかも知れません。ただ、今川の河口の箕島に箕島神社があり、祭神は神武になっていますから、今川を遡ったかも知れません。こちらのコースも魅力があります。どちらにしても、山を越えなければなりませんが、香春町あたりで標高150mです。また、直線距離にして40kmもありませんから、無理をすると一日の行程になります。
一方、遠賀川のほうは、当時、海が中間市の辺りまで来ていたのではないかと想像しています。この辺りでも海抜1mの所が多いからです。海からこの辺りまでは、田の付く地名がありません。遠賀町も同様です。中間市から上流は田の字がつく地名がいっぱいです。福岡県には、天忍穂耳命---瓊瓊杵命---日子穂穂出見命---ウガヤフキアエズ---神武天皇を祀る神社が半数をしめます。郡でいいますと、嘉穂郡、鞍手郡、田川郡、京都郡、宗像郡です。
天孫族の神を祀るところが多いということは、岡田宮までの道は、天孫族の勢力地であったと思われます。遠賀川河口に田の字のつく地名が少ないということは、漢人の勢力範囲だったのでしょう。             
 宇沙では、わざわざ襲われないように、足一騰宮(古事記表記)又は、一柱騰宮(日本書紀表記)という防御の装置をされた宮を作って貰って、ご馳走になったと書かれています。日本書紀のほうは、一柱騰宮と書いて、読み方は「アシノヒトツアガリノミヤ」と読むように注が付いています。一柱騰宮は、アシノヒトツアガリノミヤとは読めませんが、古事記の方は、アシノヒトツアガリノミヤと読むことは出来ます。是をみて判ることは、日本書紀の作者は、古事記に書かれている足一騰宮をアシノヒトツアガリノミヤと読んだものの、意味が判らなかったが、きっと、一本足の階段を登っていく建物ということだろうと、一柱騰宮と書き、「アシノヒトツアガリノミヤ」と読ませたと思われます。
神武は宇沙都比古に歓待、大切にされたことが判ります。


No47 岡田宮の周辺 [日本の歴史]

岡田宮は鞍手郡の山口村にあったことは前回記しました。私の頭に引っかかるものは、現在のような情報網がないときに、どのようにして敵の様子を探ったのかということです。神武天皇は、古事記に書かれているように、東方、即ち奈良盆地が最終の目的地においていたはずです。その前に吉野ヶ里となりました。
福岡平野のほぼ中央に須玖岡本遺跡が見つかっており、ここでは漢鏡が30面出土しています。この地は、魏志倭人伝に書かれている奴国だと、春日市教育委員会編『奴国の首都 須玖岡本遺跡』に書かれていますが。奴国は、魏志倭人伝では、「使訳通じる所30ヶ国」とあり、漢人の支配下にあった所です。奴国は日本人の国なのに、漢人が支配したところです。須玖岡本遺跡は、使訳通じるどころか、漢鏡の多さから推察すると、漢人が中心人物でした。
又、糸島平野の真ん中の前原市では、三雲南小路遺跡が発見されています。この地は、一般には糸島のイトが同じためか、「伊都国」ではないかと言われています。50枚を越える鏡の多さから、この地を統治した首長墓であると殆どの本に書かれています。出土の鏡は、前漢の漢鏡ですから、神武が攻めたときには、存在したはずです。
 このような大きな集落があったことを知らないで、これらの南に、岡田宮を定めたはずはありません。仮に、この辺りに、天孫族が住んでいたにせよ、情報を集める人がいたと考えないと、奈良までの戦は不可能です。即ち、通信網と情報網が完備されていたはずです。それは全国に分布する「日置」という地名であり、日置という名前の人たちだろうと考えています。 
私は日置名の人は、5,6世紀の人だと考えていました。それは、三重県や京都府に多いからです。ところが、そのように考えますと、鹿児島県の日置の説明が付きません。苗族の人たちが、熊本県に入植した後、鹿児島を回って、彦島のところで、大物主の関係者から、日本海と瀬戸内海のどちらに行くかの指導を受けたと思っています。そのときに日置名の人が活躍したのではないでしょうか?
 現在で言えば、アメリカのCIAのようなものであったのでしょう。
 
次は、天孫族の分布を見てみます。 
天忍穂耳命---瓊瓊杵命---日子穂穂出見命---ウガヤフキアエズ--------神武天皇
アメノホシホミミ-------ニニギノミコト----ヒコホホデミノミコト--------鵜草葦不合命-----------ジンムテンノウ
嘉穂郡           3     2        1          4
鞍手郡    2      2     1        1          2
田川郡    3      1     2        1          1 
遠賀郡    2            4        1          3
京都郡    1            2        1          2
宗像郡                 1                   2

上に掲げました祭神は、アマテラスの子供の天忍穂耳命から順に、縦の系統の名前です。所謂天孫族になります。この地域の神社の半数が、アマテラスの子孫が祀られていることになります。いかに苗族の勢力が強いかがわかります。この人たちが、漢人が住みだしたので、入植させられたのか、入植していた所へ漢人が入りこんできたのかは判りません。
このような神社は後世になってから出来たのだという反論も出来ますが、その根拠は全く無に等しいものだと思われます。立派な社は存在しなくても、代々、祭神を祀り伝えられたと考えた方が自然です。瓊瓊杵命が祀られてあるところは、瓊瓊杵命が苗族を入植させたと考えればいいと思われます。本当にそうかどうかは、祀られている神社の周囲の地名を調べますと判るはずです。田村氏は上の一覧表だけを掲げておられますが、福岡県の神社誌は、すべて調べて岡田宮に到達したと書いておられます。 


No46 神武東征はどのようにして行われたか?--4 [日本の歴史]

*** 岡田宮は若宮町にあった ***
遠賀川が新幹線と交わるところで支流犬鳴川は遠賀川に合流します。犬鳴川の上流の集落・黒目より支流山口川に入り川を遡ると「山口村」です。四方に山で囲まれた所です。現在残っている地名に田のつく地名が多いので、苗族が入植した土地と思われます。旧の住所で記しますと、鞍手郡山口村に岡田という地名があります。実際にこの町を確かめに訪れられた田村氏は「私は岡田宮を探しに山口村に出掛けました。背後は高い山に囲まれ岡田の宮は丘の上にあり、前が山口川で要害です」と書いておられます。
昭和15年の内務省調査で、神武を祀った神社は440座あり、福岡には16座あります。ちなみに、吉野ヶ里の本拠地の佐賀県には、5座しかありません。これは部下を多数配備したと考えても良いことになります。ところが、神武を祀った神社がありません。
鞍手郡山口村大字山口字山下に八幡宮があります。祭神は、応神天皇、竹内宿禰、神功皇后、大直日神、素盞鳴命、倉稲魂神、菅原神、保食神、大歳神、高丘見神、倉丘見神と多彩です。山奥の村社ですのに、どうしてこんなに多くの神さんが祀られているのでしょう。余程の理由があると思われます。由緒にはそれぞれの神は、大正4年と大正5年に合祀したとあります。この外に、境内神社として金比羅神社(崇徳天皇)、摂社として神武神社(神武天皇)がありました。この二つは何時から、存在するか書かれていません。このように摂社にするときは、神武天皇の存在を知られたくないときに行われる手段です。例えば、伯耆の高千穂のニニギノ命を祀った大宮神社がありましたが、八幡宮に合祀されています。知られたくないのであれば、小さな祠ぐらい潰せばいいのに神となれば潰せなかったのでしょう。隠したいということは、逆に考えれば、そこに神武天皇がいた、又は、神武に関係する人がいた証明になります。八幡宮と賀茂神社は、知られたくないものを隠すのに使われた形跡が多いので、注意する必要があります。
 この地のすぐ南は飯塚市です。この町の立岩遺跡から、43基の甕棺墓を発掘。
 その内、5基の甕棺墓から10面の前漢鏡を出土しています。10号甕棺墓の棺内から 重圏銘帯鏡が3面、連弧文銘帯鏡が3面見つかりました。すべて、漢の鏡です。漢人は、死んだときには、自分が漢人である証明に、鏡を一面埋葬したと思われます。6面も出たということは、部下に渡すために持っていたと思われますが、死の世界に部下として甕棺の中に忍ばせたのでしょう。位の高い漢人だったと思われます。この死者は、岡田宮に近いだけに、一番に神武天皇に殺されたでしょう。その南は嘉穂郡穂波町です。ここでは、「すだれ遺跡」が発掘されました。この遺跡の特徴は、方形周溝墓と二重木棺です。この形式は、前漢の武帝が、支配した楽浪郡の古墳に見られるもので、時代が下って、大阪市平野区の加美遺跡でも発掘されています。この町の西方に、龍王山があります。この山は、中国人が付けた地名のはずです。   武帝が朝鮮を攻略して楽浪郡を設置したのが、前109年のことですから、 方形周溝墓と二重木棺の墓は、その後に伝えられたものと思われます。 この立岩遺跡の漢人は、ニニギ命にやられたものか、神武にやられたものか判りませんが、ニニギ命がすでに制覇したから、岡田宮を作ったとなるでしょうか。それでは遠賀川を遡れば良かった事になります。判らないときは、このままにしておきます。


No45 神武東征はどのようにして行われたか?--3 [日本の歴史]

*** 岡田宮を探す ***
古事記には、日本の国がどのようにして出来たかの記述があります。九州のところは次のように書かれています。
「次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾は建日別と謂ふ」
豊国は後の世の豊前と豊後だとわかりますが、豊日別の意味が判りません。
他の島はどのように書かれているかといいますと、「伊岐嶋・天比登都柱。生津嶋・天之狹手依比賣。佐度嶋。」嶋の後ろに神の名前がついています。これは、この嶋を治めていた人の名前です。佐度嶋はだれも書かれていません。ということは、イザナギの直轄地であったことになります。女嶋・天一根。知訶嶋・天之忍男。兩兒嶋・天兩屋は、「天」の字がついています。苗族の人だったのでしょう。このように眺めますと、九州は「別」の字があります。天津族ではないという暗号でしょう。日本書紀の作者でも意味が判らなかったとみえ、筑紫島を筑紫州と字をかえて生れたとのみ記しています。古事記の編集者は、天武天皇が嘆かれたことのうち、乱れている系統を正すことに重きを置いています。
話しは複雑になりましたが、イザナギは天孫族と違う人を派遣して九州を治めさせました。江戸時代の外様大名を置いたようなものです。とは言うものの、始めはイザナギの系列の人がやって来たと思われます。
誰でもはじめての土地に来て、全体の様子を知ろうと思いますと、一番高い山に登って全体を眺めます。九州北部で一番高い山は、英彦山(1200m) ここに登って他の山の名前をつけたと思います。犬ヶ岳(1131m)、馬見山(978m)、その他に猫・鷹・鹿と動物の名前が目に付きます。イザナギの人たちが好んでつけた地名です。
田川郡添田町大字英彦山には英彦山神社があり、天忍穂耳命が祭神です。天忍穂耳命はアマテラスの子供で、ニニギの父になります。この山の辺りは、天孫族の勢力範囲だったと思われます。イザナギが活躍したのは、紀元前180年ごろではないかと思います。その後、苗族の入植もあったことが、田と福の付く地名を探せばいいことになります。
このように考えますと、遠賀川上流は天孫族の人がいて、神武天皇はいろいろ情報を得ていたはずです。詳細は後に譲るとして、岡田の宮を探します。
① 周りはどこも漢人の勢力であったはずです。安全なところが候補です。
② 吉野ヶ里を攻めるのですから、ある程度近いことです。
③ 物資の輸送と道は、川の傍であったはずです。
この条件に当てはまる所は、鞍手郡の若宮町、宮田町があてはまります。四方が山に囲まれています。この条件は逆に攻められたら、全滅です。
この地は、地名に宮がつくのが気に入っています。ただ、岡田宮があったのであれば、神武天皇を祀った神社があってもよさそうですが、見つかりません。
田村誠一氏は、若宮町山口だとされています。次回は、その根拠を書いてみます。


No44 神武東征はどのようにして行われたか?--2 [日本の歴史]

その2 岡田宮はどこに作ったか
前回、岡水門のことが、古事記には書いてなくて、日本書紀に書かれていると書きました。古事記に書かれていないのであれば、無理をして日本書紀に掲載する必要は無かったはずです。藤原不比等が見た古事記にはあったので、日本書紀にも取り入れたのでしょう。漢人の最大の砦・吉野ヶ里を攻略した神武の本拠地のことなど書きたくなかったが、岡水門を省くわけにはいかなかったのでしょう。その後、誰かが古事記から岡水門を削除したことになります。古事記には、元の古事記である原古事記と現在残っている古事記があったと考えるしかありません。
日本書紀に岡水門が記載されているということは、漢人の支配する土地であったから、隠す必要も無かったと思われます。本当かどうか確かめることにします。

遠賀川河口の現在の都市名は、「芦屋町」「水巻町」「遠賀町」です。
芦屋町のホームページに掲載されている遺跡は、山鹿貝塚 月軒遺跡、金屋遺跡のみです。外にもあるのかも知れませんが、主なものだと思います。月軒遺跡、金屋遺跡は、ずっと、新しい時代のものです。山鹿貝塚は縄文時代の遺跡です。十八体の人骨が出土していますが、これは3500年ほど前のものです。海岸線より少し遠賀川を遡った所でも標高4mぐらいの所が多いので、この辺りは、紀元前ころは海だったのではないでしょうか? ただ、山鹿の夏井ヶ浜遺跡から遠賀川式土器や、最後の縄文土器とも最古の弥生土器ともいわれる夜臼(ゆうす)式土器が出土しています。このことは、最古段階の弥生人が芦屋にいたという証明になります。これは紀元前ニ~三百年ころのことです。また、箱式石棺が発見され、鉄剣や工具類も出土しています。この時代に鉄剣があるということは、大陸から人たちのものでしょう。
水巻町では、宮尾遺跡では12000年前のナイフ形石器から6世紀の水晶製装身具、立屋敷遺跡では紀元前3世紀の遠賀川式土器、2~3世紀の弥生土器が出土、苗代谷遺跡から土師器、打製石鏃、土製紡錘車が 弥生時代中期から5世紀にかけて見つかっています。
上二貝塚から石包丁、内行花文鏡( 国内製)。このようなことから判断しますと、中国人の居た形跡はありません。
遠賀町では、丸山古墳(前方後円墳)は、全長が57mです。丸山2号墳は一辺の長さが18mの方墳で、造られた時期は四世紀前半~中頃。この他にも円墳が3基あり、直径が10~17mの低墳丘の古墳です。豊前坊古墳群  2号墳は方墳。
豊前坊古墳群  2号墳は方墳。3号墳は全長30mほどの小型前方後円墳です。4世紀中か。
遠賀町のホームページでは、上記のように、4~5世紀の墳墓しか記載されていません。このデーターがすべてであるとすれば、少し信じられないが、誰も住んでいなかったことになります。 予想が外れたようです。


No43 神武東征はどのようにして行われたか? [日本の歴史]

その1 東征の目的
神武東征のことを書いておられる人は多いですが、失礼ながらチンプンカンプンです。どなたも、古事記と日本書紀に書かれていることから出発しておられるからです。書いてあることをどのようにひねくり回してもチンプンカンです。そこで、気の短い人は、これは神話だから、神武東征など無かったというストーリーに力を注いでいます。
私はこんなわけの判らないことに頭を突っ込む気は無かったのですが、古事記に書かれている神話は実際にあったことであると仮定して、日本史を解こうとし、もう少し、データーを集めてから書こうと思っていました。自分でも気がついたときには、神武東征のことを書いていました。それも、辻褄が合いそうなところから書いていました。
このままでは、話しがあちこちに飛びますので、データー不足のままで、神武東征のことを書いて見ます。
研究をしている皆さんと同様に古事記と日本書紀からはじめます。
 古事記には、神武は「何地(いずこ)に坐さば、平らけく天の下の政(まつりごと)を聞こしめさむ。なほ東に行かむ」と兄の五瀬命と高千穂宮で相談し、語り合った。
両書物とも漢字ばかりで書いてあります。古事記の方は、岩波文庫に書かれてあった翻訳です。是ではよく理解できませんので、私なりに意訳を記しますと、「一体どこの地であれば、天下を正しく治めることができるだろうか…?」「やはり,東へ行こう」とでもなるでしょうか?
日本書紀では、ニニギミコトが地上に降臨したときから、相当詳しい話が書かれ、塩土老翁の話しとして、次の話しがあります。「東の方に美しい国がございます。そこは青山が四周を巡っていて、その中に天磐船に乗って飛び降ってきたものがございます」。
余が考えるに、その地方はきっと国家統治の大業をひろめるために、天下に君臨するのに好都合なよいところで、たぶん国の中心に位置するところであろう。その、天から飛び降りたというのは、あるいはニギハヤヒであろうか。そこへ行って都を営もうと思うがどうだろうかと天皇は、諸皇子に相談しています。
 
 いつの時代でも、戦争をするとなりますと、必ず死者が生じます。家来の命を粗末に扱う指導者についていくものなど居ません。古事記に書かれていることは、ひどい話です。前後になにか文章が抜けているのでしょう。日本書紀のほうは、私は転記するのが、しんどいので触りだけを記しました。全部、辻褄があった文章です。一度、ご自分で読んでください。天磐船に乗って飛び降りた者が、ニギハヤヒであるのが判っているのであれば、天から天降ってきたなど、どうして書いたのでしょう。いろいろのことが想像できますが、想像しても仕方のないことです。
神武東征が実話であったとしますと、どれほどひどい話であっても死亡者がいくら出ても戦争をしなければならない理由が必要です。アメリカはテロによって二つのビルがやられました。アメリカがイラクを攻めるにあたって、そのテロ集団がイラクにいる、又はイラクがテロの連中を支援しているということを攻める理由にして戦争を始めました。思惑は間違っていましたが、10000人を超える人が死んだ今となっては、間違っていましたとは言えません。日本書紀を書いた人達は、神武天皇が伯耆はいたことにしたくなかったために、古事記を見ながら、古事記を見たということを知られないように、古事記に書かれている漢字は、すべて変えました。大山の麓にあった高千穂は、認めたくなかったので宮崎県の日向にしました。高千穂はどういう意味でしょう。漢字に意味があるとしますと、高い山で、穂が千ほどあるといいますから、山にぎざぎざがいっぱいあるということでしょう。九州の高千穂はそのような山でしょうか? どこから見てもそのように見える山など無いでしょう。漢字に意味が無いとしますと、意味不明となります。
一方、日向の方は、太陽に向かっているところを言います。山の東斜面または、南斜面です。小字では、東斜面が多いです。しかし、必ずそうとは限りません。この漢字の読み方は、にっこう、ひうが、ひおも、ひがた、ひなた、ひな、ひむかい、ひむき、ひよも、ひるが等があります。漢字よりひらかなにしたほうが、意味が良くわかります。もともと、日が当たる所という意味で、狭い部分につけられていた地名です。小字が似合っています。全国で200件ほどの日向地名があります。九州だけで10件ほどありますが、日向国には、一件しかありません。どうして国名になったのが調べる必要があります。
私は日本書紀を書いた人が、伯耆の高千穂は書きたくなかった。古事記に書かれている神武東征の出発地・日向も、島根半島の日向にはしたくなかった。どこかに日向はないかとなりますと、いっぱいありますが、宮崎の日向を思いついた。しかし、是は、大変なことになりました。次々と古事記にあることを書き換える必要が出てきました。
古事記に速吸門で釣をしている人に会ったとあります。これは岡山の高島を出てからのことになっています。日本書紀では宮崎の日向を出て直ぐですから、豊後海峡のことになります。両書とも、釣をしていた人に水先案内をして貰ったことになっています。古事記の方は、水先案内が必要な所は、明石海峡でしょう。ここは、小船ですと、潮の流れを知っていないと遭難するでしょう。明石を過ぎて尼崎のあたりでも、潮の流れは複雑で、遭難が多かった記録があります。豊後海峡も案内は必要でしょうか? 私は通ったことが無いので知りません。
古事記では、日向を出て、すぐに豊国の宇沙に行ったとあります。日本書紀では豊後海峡を通過して、菟狭に着いたとあります。宇沙と菟狭に注目してください。古事記を見ないで書いたのであれば、どこかで同じ字が使われていても当たり前です。徹底して同じ文字が無いということは、古事記を参考にして、参考にするどころか、古事記を抹殺する気がないとこのようにはなりません。古事記では神武は足一騰宮に泊めてもらい、ご馳走になりました。日本書紀では一柱騰宮に泊めてもらい、ご馳走になったあります。どのような建物でもどうでもいいと思うのですが、ここは、日本書紀の作者は古事記と同じことを書きたかったようです。古事記の「足」を止めにして、「一」にして判りやすいように書き換えました。大事な客なので、攻め込めないように、入り口が一つだったのでしょう。現在の宇佐の辺りは、標高ゼロですから、当時は湿地帯であった可能性はあります。読んで字のごとく、一本足の家を建てて、襲われることを防いだのかも知れません。その証拠に、古事記では、宇沙都比古(紀では、菟狭津彦)と宇沙都比(紀では、菟狭津媛)は、新たに泊まるところを作ったとあります。
日本書紀では、次に、11月9日に、筑紫国の岡水門に着かれたとあります。そして、12月27日に安芸国の埃宮に行かれたとあります。冬に向かって戦争をするものでしょうか?
地図をだしてご覧ください。豊後海峡を通過して、東に向かいますと、直ぐに安芸国なのに、何をしに菟狭にいったのでしょう。ご馳走になるためでもないでしょう。その上に、関門海峡を通って、遠賀川口の岡水門(おかみなと)に行ったとあります。まさか、旅行気分でもないでしょう。
古事記では、岡水門とは書いてありません。岡田宮を作って一年居たとあります。ということは、遠賀川口の岡水門は、敵の地であったので、通らないで宇佐を通って岡田宮のところまで行ったことが判ります。
記紀には、ほぼ同じことが書いてあると解釈したら大間違いです。この調子で一部を書き換えますと大変なことになり、藤原不比等の仲間は、日本中の神社の神さんを書き換えたり、何も無かった所に神社をつくったり、山まで造る羽目になりました。この話しはおいおい書くつもりです。
神武天皇は、戦争に出かけたのです。一番の敵は吉野ヶ里でした。岡田宮が参謀本部になりました。
タイトルの「東征の目的」は、古事記には書いてあったと思います。そこは消された上に、日本書紀では削除されました。漢人であった藤原不比等は、祖先の人が戦に負けたことは書きたくなかったのです。古事記には岡水門のことが書かれていたのだと思います。いっそのこと、これも日本書紀に書かなければ、判らなかったでしょうに、書いたばかりに、岡水門の上流に岡田宮があったことが判ってしまいました。

東征の目的は、漢人から絹を取り上げ、天孫族の世の中にするためです。

次回は、岡田宮のことを書きます。この部分は、日本書紀にも古事記にも書かれていません。私の独断場になります。とはいうものの、すべて田村誠一氏の本に書かれていることです。田村氏の説を補強するために、この周りのことを調べました。楽しみにしてください。


No42 神武東征の敵 吉野ヶ里 その2 [日本の歴史]

天草へ苗族入植作戦
 神武天皇が、三番目にしたことは、天草の辺りに苗族を入植させることでした。
皇紀2600年(昭和15年)の記念として、いろいろのことが企画実行されました。その内の一つに、神武天皇が祭られている神社の調査があります。
熊本70、福岡16、鹿児島15、佐賀5、大分9、宮崎15、広島37、岡山32、鳥取7 の各社の存在が判りました。佐賀と鳥取県を除いて件数の多い県だけを表示しました。
もっとも多い熊本県の70社の内、44社が天草郡にあります。熊本県は肥後国ですが、式内社は4社しかありません。式内社は由緒正しい、古い神社ということになっています。確かに延喜式に掲載されている古い、由緒があるのは確かですが、天照大御神を祀っている神社は殆どありません。ということは、天照大御神に対して敵対の気持ちがある人たちが式内社に定めた神社です。その数が少ないということは、熊本は天皇系の勢力が強い国であることが判ります。何故強いかといいますと、神武天皇を祀った神社がとび抜けて多いことで判ります。しかも、天草郡だけで44社ですから、神武天皇が意図的に、苗族の人たちを入植させたことになります。朝鮮から直接九州に来るためには、相当大きな船でエネルギーを使ってはじめてくることが出来ますが、中国の福建省あたりから来ますと、ゴムボートを使って3、4日で到達可能です。
それに比して、隣の佐賀県は僅か5社です。例えば5社の創建をしらべますと、古いものはゼロかもしれません。ここは、吉野ヶ里から中国へ絹を運ぶときの主要港であったはずですから、神武の者とて近寄ることが出来なかったと思います。式内社は4社です。これは非常に少ないことになります。式内社が制定されたときは、漢人の勢力が無かったことになります。
神武天皇は東征する前は、伯耆国にいましたから、当然、一番多くてもいいはずですが、僅か7件です。神武天皇が伯耆に居たことは、極力書きたくなかった日本書紀の作者は、神武を祭る神社を抹殺し、辛うじて他の神社に合祀されています。日本書紀を書いた人と式内社を制定した者は同一の人間ということになります。その中心人物は藤原不比等ということになりますが、このようなスケールの大きいことは一人の力ではできませんから、多くの漢人がしたのは間違いないでしょう。
福岡はもともと天皇の勢力のあったところです。広島、岡山は、東征のときに7~8年駐留したところです。苗族を入植させて、米が収穫できるようになるまで、最低3年はかかります。
このように神社の分布を見るだけで、神武天皇がどのように動いたか説明することが出来ます。福岡県の神社誌を使って、もっと詳細に眺めますと神武天皇が九州に出かける前に、天孫族の人が、どのように動いたか知ることが出来ます。
神武天皇は、吉野ヶ里を攻めるときに、吉野ヶ里から中国へ行く漢人を天草で封鎖し、又、熊襲との交流も妨害しました。神武軍の主流は遠賀川から攻撃したと思われます。
この時、ユダヤ人が援護した証拠が地名に残っています。


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