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東の高天原(5) 著書 歴史各論 [高天原]

田村氏は、古事記を読み始めて、どれほど経ったか判りませんが、昭和55年11月に
『ヒルゼン古事記』を発行しておられます。しかし、私の持っている『ヒルゼン古事記』の発行日は、昭和56年建国記念日になっていますから、昭和56年2月11日という事になります。 そうしますと、2冊目は、タイトルを変えて、前回、紹介しました『第一話 神々のふるさと ヒルゼン --めぐりあい』を『ヒルゼン古事記』の第2版として、昭和56年24月29日に発行しておられます。
 そうしますと、田村氏は、第一話は、内容を書換えながら。3回発行されたことになります。

 この間に、古事記だけではなく、魏志倭人伝から日本の歴史を捉えようとしておられます。
NHKのシルクロードの放映を見て、関連の単行本を読み、古代史のヒントを得たと書いておられます。 音楽の旅でくちゃの壁画を知り、その壁画に描かれてた五弦の楽器が、正倉院の御物にあることを確認。これは、中国にも韓国にも無かったことを確認しておられます。
 放映されたクチャの踊りが、ヒルゼン高原で、伝えられている〔大宮踊り〕とそっくりであることを発見。これは、ヒルゼンの住民では、気が付くことではなかったと思われます。よそ者である田村氏だから、「少し、似ているな」と感じられたのでしょう。

 壁画に描かれてた五弦の楽器が一人でやって来るわけが有りません。舞う天女は、似たものが宇治の平等院に描かれています。
 仏教は、中国から伝えられたと思われていますが、少なくとも、クチャの踊りと一緒に日本へ伝えられたのではないかと、考察を進めておられます。
 
 第一話の第2版では、「地名」のことを取上げておられます。毎日、地図を見なかったことは無いほど、地図を眺めて、車でいけない所は、地図の上で、旅行されたことが判ります。
 この様に、発行された順に田村氏の著書を読みますと、途中で考えが変わられた所もありますが、始めのうちは、仮説のようなものが多くみられますが、どんどん、仮説ででなくて、日本の歴史が浮かび上ってくる様子が、見えてきます。
 非売品ですから、きっと、購入することは出来ないと思います。
 前回にも、記しましたが、もう一度。

どのような内容かは、【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/ に掲載しています。現在は、第17話 古事記が解いた古代史  式内社(3) を掲載していますが、はじめから読まれる方は、ページの右の部分にカテゴリーの欄があります。ここの< 田村誠一氏に捧ぐ >をクリックして頂きますと、新しい記事から掲載してあります。 下にスクロールして頂きますと、<より以前の記事一覧>があり、どんどん下にスクロールしますと、一番したにある記事が、古く掲載したものです。
田村誠一氏に捧ぐ 2007.12.13
です。
 田村誠一氏は、はじめて、古事記を手にしてから、4年の間に、19冊の小冊子を出版されました。
 
 次回に、続く。

東の高天原(4) 古事記 歴史各論 [高天原]

東の高天原がここだと云われた人は、田村氏以外にも居られたということは、前々回に書きました。
 ただの高天原は、此処だと云われる方は、一杯です。歴史には、全く興味が無かった田村氏が、どうして、興味を抱くようになったかは、
第一話 神々のふるさと ヒルゼン --めぐりあい
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/post_4854.htmlを読んで頂けますと、お分かりになられると思います。
佐竹先生の著書≪神代遺跡考≫を読まれたからです。

 しかし、≪神代遺跡考≫は、復刻版もだされたことですし、読まれた方も大勢居られたと思うのですが、副題の「高天原は日留山高原だった」に興味を持つ人は、居られませんでした。
 この文章を丁寧に読まれますと、「今年の夏は測候所始って以来の、長雨が八月になっても続いていた。こんなある日、東京と大阪の友人が、わざわざヒルゼンまで、訪ねて来られた。わざわざでないと、一寸来られない、岡山のチベットと呼ばれる所だ。」と書いてあります。
 田村氏は、ヒルゼン高原に、セカンドハウスを持っておられたようです。そこへ友人が来られたことになります。ヒルゼン高原には、多くの方が、住んでおられます。お一人ぐらい「高天原は日留山高原だった」を読まれて、そうかも知れないなと思われても、よかったのですが、誰もおられませんでした。

 地元の皆さんは、厳しい生活環境を耐え抜くのが精いっぱいで、「高天原は日留山高原だった」所でなかったと思います。
 一方、田村氏は、働き過ぎている頭を休めるために、セカンドハウスを求められたと思います。
 まだまだ、使い切れていないきれいな脳細胞が刺激されたのでしょうか。歴史のことを少しでも、齧っていますと、「こんなバカなことは無いだろう」ぐらいで、終わったかも知れませんが、田村氏は、『古事記』を購入されました。
 普通ですと、現実にあり得ないが続く、古事記は、数日で面白くなくなりますが、そうではなかったと思われます。

 序文の所は、難しいので、飛ばして読まれたのではと推察します。
 そして、本文です。

 天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也。 次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。  上件五柱神者。別天神。

を読まれたときに、次の部分では、次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。 あれっと思われたのではないでしょうか。

 これは、自分の住んでいるヒルゼンだ思われたのではないでしょうか。
神話の続く古事記を読み進まれたと思います。


東の高天原(3) 歴史各論 [高天原]

高天原という言葉は、古事記に書いてあります。日本書紀にも書いてあると思われるでしょうが、「他の一書」に書いてあることは、一杯ありますから、当てになりません。普通に読みますと、日本書紀は、多くの書物を参考にして書いてあるから、正確であると判断します。それらをすべて、参考にして、日本書紀を書いた人は、どのように判断したかを、「他の一書」が書いてある部分の前に書きました。私は、この部分を日本書紀の本文と考えています。 従いまして、、「他の一書」に書いてあることも、すべて正しいと判断しま間違ってしまいます。
 
 古事記に書いてある高天原は、本文の一行目に書いてあります。
 天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也。
次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。

 上件五柱神者。別天神。

 この高天原の意味が解らない人が、殆どです。どんどん読んでいきますと、どうやら、高天原、天上の世界であることが判ります。どうして、判るかと云いますと、ここに住んでいた人々は、瓊々杵命をお守りして、高千穂へ降臨されたことになっています。
 この高千穂が、又、どこか判りませんが、日向(宮崎県)の高千穂という山らしいのです。
この山の上に、降臨したという事は、高天原より上にあったことになります。
 
 この様に、古事記の最初から「高天原」の事が書かれた古事記は、偽書扱いになっています。

 では、神武天皇の処以前は、何だといいますと、作り話であり「神話」と呼ばれています。では、神武天皇以後の部分はと云いますと、崇神天皇まで、碌々内容が有りませんから、欠史時代と云われ、これも創作という事になっています。

 如何でしたか、此処までは、私が、掴んでいる現在の歴史界の流れです。

ところが、田村誠一氏は、はじめて、古事記を手にしてから、4年の間に、19冊の小冊子を出版されました。
 殆どの小冊子は、非売品です。誰も云ったことのない田村氏が考えられたことを知って貰おうとどんどん、本の形にされました。

 どのような内容かは、【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/ に掲載しています。現在は、第17話 古事記が解いた古代史  式内社(2) を掲載していますが、はじめから読まれる方は、ページの右の部分にカテゴリーの欄があります。ここの< 田村誠一氏に捧ぐ >をクリックして頂きますと、新しい記事から掲載してあります。 下にスクロールして頂きますと、<より以前の記事一覧>があり、どんどん下にスクロールしますと、一番したにある記事が、古く掲載したものです。
田村誠一氏に捧ぐ 2007.12.13
です。
 これを読んで、田村誠一氏が、どのようにして、「東の高天原」があったと判断されたかを探ることになります。
 一番に、考えられることは、古事記に書いてある「高天原」が、ヒルゼン高原にあったことを発見されたのが、最初であろうと思います。

東の高天原(2) 歴史各論 [高天原]

「東の高天原」という言葉を使った人は、田村誠一氏です。私がこれまでに書いた文章に出てくる田村誠一氏です。膨大な本を出版されましたのに、どうしたわけか、一冊も残っていません。全国の大学に送ったと書いておられました。残っておれば、大学の蔵書にあり、インターネットで検索しますと、ヒットする筈です。
 どれほど、印刷されたか判りませんが、一冊も無いという事は、持っておられた方が、古書店に出されたとしますと、買われて、そのまま持っておられるか、処分されたと考えています。
 もっとも、大学に限らず、私費で出版された本は、著者が、自分を売り込むために書いたものばかりだから、図書館どころか、本屋さんも取り扱わないし、残らないらしいです。取り分け、田村氏のように、著書の中で、歴史学者の悪口を書いた本などは、図書館に置いてはもらえなかったのかも知れません。
 この様なことは、時代にそぐわないものは、すべて、抹消された可能性は大きいです。
 その代表は、古事記です。作られたのは、712年で、発見されたのは、江戸時代です。
 
 前回書きましたように、「高天原」という言葉は、古事記と日本書紀に残っていますが、田村氏は、「宮下文書」に書かれてあると著書に書いておられます。

インターネットで検索した「宮下文書」なるものの記事を記して置きます。

宮下文書
①幻の富士南朝-『宮下文書』-
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/fujinancho.html
②富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』

http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/enryaku3.html

③東三河と徐福伝説
http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page006.html

④あ や し い 書 簡 箋
http://hachi-style.jugem.jp/?eid=79

⑤富士山の古代 高天原は富士山にあった。富士古文書・宮下文書
http://blogs.yahoo.co.jp/hujisyoki/1695711.html

少し、目を通して見ましたが、私は、宮下文書には、これ以上、知るつもりはありません。

と申しますのは、宮下文書は、偽書という事になっているようです。偽書とは変な言葉ですが、ある人やその時代の人にとって、そぐわないものは、なにか意図するところがあって書かれたものと云うことです。
 なにも意図しないで書かれることは無いのですが、なぜか、古い書物では、偽書扱いになるものが多いようです。

田村氏は、唯の高天原と云わないで、東の字をくっ付けて、「東の高天原」とされたのには、理由があります。この後に、「西の高天原」を見つけられたからかも知れません。
 

次回は、田村誠一氏が、どうして、「東の高天原」という言葉を使うつもりになられたかを書いて見ます。

歴史各論 東の高天原(1) [高天原]

前回、西の高天原と東の高天原のことを書くつもりでしたが、少し、テーマが大きいのとグチを書いていましたら、脱線して書かず終いでした。
長いこと、三角縁神獣鏡を中心に、歴史を眺めようとしてきましたが、一時中断して、「東の高天原」とは、どのようなものかを知ることによって、日本の歴史を探ってみようと考えています。

全国には、高天原と云われる所は、あちこちにあります。全部確かめたわけではありませんが、殆どは、古事記に書いてある「高天原」の事だと思われます。

 そんなことは無い、日本書紀にも書いてあると思われる方もおられるでしょう。確かに日本書紀にも「また一書 (第4)」の所に書いてあります。
 日本書紀を書いた人が考えたことは、「また一書 (第4)」のような形式で書いてある部分より前に書いてあります。「また一書」に書いてある事柄は、このような本がありましたという参考文献です。 この部分は、日本書紀の編集者の創作だと思われます。

 日本書紀を一度確かめてください。「また一書 (第4)」は、古事記にかいてある事柄のように思われますが、登場する神の名前が、古事記と全く違っています。だからと云って、古事記の事ではないとしますと、日本書紀には、参考文献として、古事記は一回も登場しないことになります。

 福岡県で見付かった戸籍関連の木簡は、尾崎前山遺跡に見られるようなミスは無い様に思われますが、文字で書いてあるから正しいとは限りません。書いてあることの判断を間違いますと、とんでも無い結論を導きだすことになります。

これまで、私は古事記に書いてあることは、正しくて、日本書紀に書いてあることは、間違っている部分が多いと考えてきました。
 実際は、この逆であるのが、現在の日本の歴史界のみならず、一般の常識です。日本書紀がただしいと思われています。

 古事記は正しいとは限りません。古事記に書いてあることは、太安万侶という人が、日本に伝えられていることは、このようなことですよと書いたものです。
 全体の流れは、日本の歴史と云うよりは、天皇家の歴史が書いてあるように思います。
天皇家と関係のある人物は、すべて書き残した資料集と考えていいでしょう。
 
 天皇家の血縁関係ばかりだと思っていましたが、太安万侶は、天皇家の支配した土地の事も書いたのではないかと、考えました。これが「その新しい発想のことを書きます」の事です。

太安万侶は、最初に、天皇家の子孫等が、建国を試みた場所の事を「高天原」と名付けて、書き出しています。そして、どのように、次々と制覇して行ったかを、「国生み」の形で書き残しました。
 ところが、「高天原」はどこにあったかと云いますと、九州の日向にあった、四国にあった、奈良県にあった、滋賀県にあった  数えきれないほどあるそうです。

 どこにあったとしても、誰に迷惑がかかるわけではありませんから、どうでもいいのですが、東の高天原があったと考えられた人が居られるのです。

 次回は、引き続き、聞きなれない「東の高天原」の事を書きます。

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