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東の高天原(15) 西の高天原(8)磐田原台地(6) 国分寺 歴史各論 [高天原]

遠近国分寺は磐田市役所の近くにあります。
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/tayori/0511.php
 これまでに、国分寺跡が判っている所は、できるだけ、立ち寄るようにしてきました。
 国府は、国の真ん中に位置していたように思います。国分寺は、国府より少しはなれていることが多かったように記憶しますが、中央だったと思います。
 大阪府の柏原市にある国分寺は、国全体が狭いことはありますが、国分寺は、高い所にありました。塔跡は残っています。
 写真 http://komatsu0513.heteml.jp/kawachi.html

次の磐田とのブログに、次の文章が有ります。
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/bun09.php

「天平13年(741年)、諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建立が始まりました」どの国分寺の記事には、同じようなことが書いてありますが、本当でしょうか。

【大和東大寺東塔・西塔】の事は、次の所に掲載されています。
 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_todaiji.htm
 
天平勝宝4年(752)塔身の工事完了、天平宝宇6年(762)歩廊工事
天平宝宇8年(764)東塔露盤を上げる、西塔の竣工もこの頃か?

 その後、何度も、火災に遭い、再建されていますが、現在は、両塔ともみることは出来ません。741年の詔が有ってから、完成までに、20年程かかっています。他の国も、塔は七重の塔ですから、同じくらい年数は掛ったと思います。
 全国に一つぐらい残っていてもよさそうですが、すべて、火災で焼失したのでしょうか。
奈良の大官大寺は、九重塔だったとされていますが、完成して、使用されない内に倒壊(?)
と云われています。五重塔は倒れたのはなくて、すべて焼失とされています。七重、九重塔は、技術的に難かしものであったのでしょうか。
 
 長々とわけの判らないことを書いてきましたが、納得いかないことが有ります。これらの国分寺が、全国一斉に建築することが可能だったのでしょうか。

 可能だったことにします。
 この頃より、200年前は、前方後円墳が造られなくなり、盛んに円墳が造られるようになります。円墳と云っても、巨大な石が使用されています。しかし、お墓の中に、収められている土器なのが、お粗末すぎます。たまに、そこに書かれている絵が残っていますと、話題になっていますが、現在の三歳児のほうがマシ苗を書きます。
 このように考えてきますと、古墳時代は、100年も200年も遡らせませんと、おかしなことになると思います。

 何を言いたいのかと云いますと、磐田の地に、国分寺を建てたのは、日本人ではなくて、中国人だったのではないかという事です。

 こんなことが認められますと、日本中の国分寺を建てたのは、中国人という事になります。
 国分寺を建てたのは聖武天皇という事になっていますが、笑話ではないが、建てたのは、中国人の大工さんという事になります。しかし、建物の資材などを用意したのは、各国の国司という事になります。  
 どの国の国司が、中国人であったかは、古事記に書いてあります。

磐田市の場合は、古墳や高地性集落、其の他諸々の事から、遠近国の国司は、中国人だったと思われます。

東の高天原(14) 西の高天原(7)磐田原台地(5) 浅間神社 歴史各論 [高天原]

前回、【歴史の不思議】 http://www21.atpages.jp/skeikas/ の中の浅間神社一覧のところをご覧ください、と書きました。
 ごらんの通り、まだ、未完成です。従いまして、これまでの資料だけで、結論を出すのは無理ですが、余りにも数字に差がありますので、敢えて、結論らしきものを書いてみようかと思います。

 このブログでは、「東の高天原」と云えるようなものが、静岡県にあったのではという推理を正しいかどうか確かめています。
 「東の高天原」を取り仕切っていた人は、木花之佐久夜毘売と 大山津見神ではないかと考えています。
 木花之佐久夜毘売は瓊瓊芸能命の后です。大山津見神は木花之佐久夜毘売の父親です。

 瓊瓊芸能命が高千穂に天孫降臨した時は、幼子でしたが、成人に達し、木花之佐久夜毘売と結婚します。そして、鳥取県の宮内(西伯郡)に宮城を定めました。 この頃は、中国人の勢力が、全国的に広がることとなり、瓊瓊芸能命は、「西の高天原」を拠点として、征伐に向かいます。大山津見神と木花之佐久夜毘売は、自分達が、諏訪方面からの絹を天竜川を使って、運んでいましたので、磐田市、袋井市、掛川市にまず、農民を入植させたと考えています。その証拠として、「田」の字が付く地名が多いです。
 そんな馬鹿なと思われるでしょう
 日本中の地名を全部調べてください。3000万はあるそうです。無理だと思われましたら、
 天竜側の東側にある「田」の字が付く地名を書き出してください。
 次に、天竜川の西側を確認してください。
 西側はみごとにありません。このようなことは、どうすれば、なるかと云いますと、人為的に、天竜側の東側に人を入植させませんとなりません。
 入植の目的は、戦ですから、戦うためになにをすれば良いかと、順番に考えれば良いことになります。
 古代においては、新しいところに進出するには、兵隊と食糧確保が一番大切です。兵隊と食糧確保の中でも、米はお米が一番です。焚いて乾燥することによって、水を加えるだけで、利用できるからです。その為には、所謂、屯田兵を入植させることから、始まります。
 まだ、戦争という段階ではありませんが、相手の動向を知る必要があります。

 それが、前回、書いておきました高地性集落です。紀元前の高地性集落は、苗族の人たちの集落です。握って投げるのにいいような石が出土していると考えます。これから、確認することになります。
 紀元後の高地性集落には、簡単な武器に当たるものがあったのではないかと想像しています。

 瓊瓊芸能命は天照大御神の孫ですから、時代は、紀元前100年頃になるでしょうか。

 従いまして、天竜川の近くには、浅間神社が多い筈ですが、
【歴史の不思議】 http://www21.atpages.jp/skeikas/page260.html
の中の浅間神社一覧の磐田市、袋井市、掛川市をご覧ください。神社は少ないです。掛川市から東は、しばらく、山が続きます。この三市一帯は、其の後、入植した中国人に代わられてしまったと推理しています。

 それが確定したのは、大化の改新の645年以後になります。

 磐田市の市役所の近くに、国分寺跡があります。740年頃には、遠近国の中心地であった所に、国分寺が建てられたことになります。
 次回は、国分寺のことを書きます。

東の高天原(13) 西の高天原(6)磐田原台地(4) 高地性集落(2) 歴史各論 [高天原]

前回は、磐田原台地一帯にある高地性集落の紹介をしました。
 『日本の古代遺跡』1 静岡 に書いてある文章を読んで考えたことを書いて見ます。

①天王山遺跡では、6戸が有りました。この様子が、図示されています。6戸は全て、尾根にあります。その内、2つは、一番高い所に設置されています。6つとも、中心に柱の穴があり、周りには、4本の柱跡があります。大きさが書いてありませんが、柱の数から、4人ぐらいは住んでいたでしょうか。合計、24人という事になります。この人数ですと、見張りだけではなく、防衛の任務もできたかもしれません。
 気になる所は、
 「県東部においては数十戸の竪穴住居から構成される高地性集落もあるが、大田川水系ではそのような大規模な遺跡は現在明らかではなる」の部分です。
県東部とは、現在のブログのテーマである「東の高天原」があった所ではないかと考えています。
高地性集落の分布は、紀元前1世紀~紀元2世紀と紀元後弥生時代の終りかけの2回に分けて、ピークがあったことを述べておられる方が多いです。しかし、高地性集落はどのような目的で造られたかは、現在でも、判っていません。
そこで、この高地性集落は、紀元前のものは、苗族の人が、紀元前に大量に日本に移住してきたために、中国人の人から防衛するために、築いていったのではないかと、考えています。
静岡の場合は、東の高天原の人たちは、戦争が苦手だった人の遺跡で、人海戦術で、数十戸の竪穴住居で対処していたのではと、一方、磐田原台地の天王山遺跡の人たちは、紀元前後の頃に移住して来たのではないかと考えます。大陸の人ですから、武器は持っていましたから、苗族人より、少ない人数で、対処できたと考えています。
 はっきりしているのは、三角縁神獣鏡が出土した磐田市の新豊院山D2号墳は、日本でつくられた魏鏡の可能性が高いですから、250年前後に、此の地に住んでいたとみています。
 内行花文鏡などの出土した古墳の主は、それより以前に、この地にやって来たと考えていますが、古墳時代は、始まりは、3世紀が歴史界の常識になっていますから、この説は、少し、困っています。

② 『日本の古代遺跡』の筆者は、次の様に断定しておられます。 「大田川水系における高地性集落の出現の契機が、弥生時代後期の農耕社会にあることは明かである」

 しかし、観察は鋭く、「倭国の大乱の存在」のことを書いておられます。静岡だけに限りますと、筆者が云われるとおりですが、高地性集落が全国的に分布していることから魏の国がやって来て、日本から絹を収奪するには、相当、苗族の人の抵抗を受けたと推理しています。苗族の人が、魏や後漢の皇帝にたてついたので、「大乱」です。日本人同士が、争ったからと云って、中国の国書に書き記す訳がありません。
高地性集落の言葉が入る記事は、沢山書きました。 その内、5つを集めて置きました。古いことですので、間違ったことが一杯かいているかも知れません。私が、高地性集落とは、どのようなものであるかを考えた課程が解るのではと思っています。読んでください。

【高地性集落】 http://www21.atpages.jp/skeikas/page271.html
 【倭漢戦争だった倭国大乱】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-28

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歴史の不思議】  の中の浅間神社一覧のところをご覧ください。磐田市にある浅間神社をご覧ください。 この辺りも、東の高天原 だったのではと考えています。

東の高天原(12) 西の高天原(5)磐田原台地(3) 高地性集落 歴史各論 [高天原]

前回、『日本の古代遺跡』1 静岡 保育社 
昭和57年11月1日 発行 (1982年) 
 に書いてあることをそのまま、文章にしました。

 152ページに、「高地性集落」のことが書いてあるので、そのまま、転記します。

 弥生時代後期になると、沖積地にのぞむ丘陵上にも集落がいとなまれるようになる。一般に高地性集落と呼称される遺跡である。
 天王山遺跡(掛川市下西郷)、城之崎遺跡(磐田市城之崎)、一色前田遺跡(袋井市一色)などがその代表的な例である。県東部においては数十戸の竪穴住居から構成される高地性集落もあるが、大田川水系ではそのような大規模な遺跡は現在明らかではない。これらの遺跡はいずれも舌状にのびた丘陵の端部近くに集落をいとなんでおり、天王山遺跡では六戸、
城之崎遺跡では七戸、一色前田遺跡では四戸の住居により構成されていた。沖積地において集落が増加してゆく弥生時代後期に、いっぽうではこうした丘陵上に小規模の集落がいとなまれる背景は何であろうか。
 大田川水系における高地性集落の出現の契機が、弥生時代後期の農耕社会にあることは明かである。いっぽう前章で述べた倭国の大乱の存在を、この小規模な遺跡から類推することは困難であるが、沖積地の水田免との比高が十五―-二十メートル以上あるこれら高地性集落の性格を、沖積地に立地する集落遺跡と対照させて判断することもまた可能である。筆者は高地性集落を、地域社会における水利権や耕作地の確保をめぐっての政治的緊張がうみだした遺跡とみておく。しかし最近では、そうした高地性集落直下の谷あいを谷水田として開墾するためにいとなまれた村集落と考える説もあり、今後なお検討されるべき問題である。

 これで、高地性集落に関する文章は全てです。
私のだらだらとした文章と違って、磐田原台地の近くの様子を、簡潔に、すべてを書いておられます。
 みなさんは、この文章を読まれて、なにを考えられましたか。

このような話は、読んだのははじめてだ。 どうして、掛川市、磐田市、袋井市の各市に、高地性集落に一つずつなのか。広範囲で、連携して防衛をしていたのだろうか。
 いっぱい考えることができます。  次回まで、少し、時間を置きますので、考えてください。

 できれば、この地域のみなさんに考えて頂ければと思います。

東の高天原(11) 西の高天原(4)磐田原台地(2)  歴史各論 [高天原]

くどいようですが、磐田原台地のことをもう一度、書いて見ます。
どうしてかと云いますと、次の所に、凄いことが書いてあります。

磐田文化財だより 第29号
 http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/tayori/0708.php
<磐田市は、静岡県内でも古墳が集中している地域で、900基以上確認されています。この中には全長100mを超える大型古墳も見られます。企画展では前方後円墳を中心とした古墳から磐田が遠江の中心であったようすを紹介します。>

 どの様に思われましたか。 ご自分の町はどれぐらいの古墳が有りますか。私の町ですと、10基も無いと思います。
これほど、少ないとこれ又、何故少ないか、調べる必要があります。

 『日本の古代遺跡』1 静岡 保育社 
昭和57年11月1日 発行 (1982年) このシリーズを10冊ほど、持っています。ふつうは、これほど古い本ですと、役立ちませんが、私には、大いに役に立ちます。
 この本の141ページから144ページまで、磐田原台地の説明と地図が掲載されていますので、ご覧ください。

 地元の方でないと書くことが出来ない文章です。

第三章 磐田台地と太田川水系 1 古代遠江をリードした人びと

 東名高速道路や国道一号線から東方をのぞむと、高い浸食崖を持った台地が、天竜川にそって延々とのびるのを見ることができる。磐田原台地である。南北11キロ、東西約四キロ、ゆるやかに南へ傾斜するこの台地は、静岡県東部の愛鷹山麓や箱根山麓と比肩される旧石器遺跡の宝庫である。現在、台地の北東部から西部一帯にかけて約50か所の旧石器時代の遺跡が確認されている。またそれと同じ地域を生活領域として、縄文遺跡もいとなまれるようで、ほぼ同じ分布を示している。しかし縄文時代中期以降になると、台地中央をきりひらく今之浦川が平野部へと流れでる、現在の磐田市の市街地の中心部からやや東方の低地に、貝塚をともなった遺跡群が、西貝塚を中心として形成され、生活基盤や生産様式の多様化をうかがわせる。なお縄文時代には、太田川や原野谷川、倉真川など、太田川水系上流域の丘陵部に、やや散漫ながら遺跡の分布が認められる。

 この調子で、144ページまで、磐田台地の様子が書いてあります。
磐田市の東は、袋井市、掛川市です。磐田市は狭い所をご覧ください。 30年前の資料で、磐田市に900基の古墳があったという事ですが、現在でしたら、どれだけに増えているのでしょう。

磐田市地図.jpg

東の高天原(10) 西の高天原(3)磐田原台地  歴史各論 [高天原]

東の高天原は、どの辺りだったか。
 磐田市は、天竜川の河口近くにあります。その東の方に、愛鷹山麓、箱根山麓、その先に行きますと、伊豆半島になります。
 この辺りにあったのではと推理しています。
 天皇家は、ヒルゼン高原に居ましたが、次第に、中国系の人々の勢力が強くなりましたので、イザナギは、一番頼りになる天照大御神・須佐之男命・月読命に高天原を託して、滋賀県の近江八幡に出かけました。
 その留守に、須佐之男命は、天高原を乗っ取ろうと、馬を使って攻め込んだことが、古事記に書かれています。須佐之男命はお別れに来ただけだと言い訳をしますが、聞き入れられず、追放になります。
 由良川を遡って、侵略をしようとする勢力が増えてきましたので、天照大御神が、大江町の皇大神社の所へ、拠点を構えます。 天座という地名で残っています。
 当初は、天照大御神は、ヒルゼンの高天原と天座を行き来していましたが、西へ侵攻する勢力を抑えるために、川が狭くなっている夜久野町へ、月読命を派遣します。
 ところが、天照大御神の孫の彦火明命(古事記では天火明命)が、中国人の人たちと仲間になりました。このことは、記紀には書いてありませんが、籠神社の由緒に書いてあります。
 其の為に、天照大御神は、高天原を引き払う決心をします。
 孫には、天火明命と瓊々杵命がいましたが、天火明命は、籠神社に降臨したことになります。ここは、吉野ヶ里の人たちと仲間だったと考えています。
 この時は、瓊々杵命は、赤ちゃんでしたが、鳥取県の高千穂に降臨し、成人になり、コノハナサクヤヒメと結婚をします。
 情勢は、益々、悪くなり、瓊々杵命は、九州に派遣されます。后のコノハナサクヤヒメは、父親の大山祇命と姉と一緒に東の高天原へ派遣されます。
 どうして、そのように考えるかと云いますと、九州には、瓊々杵命を祀った神社が有ります。一方、東の高天原には、コノハナサクヤヒメが祀られています。
 コノハナサクヤヒメが一人でやって来ても、戦は出来ません。多くの部下が一緒にやって来て、征伐した後も、其の地に残り、神社をたてて、瓊々杵命を祀ったと思われます。

 西の高天原は、割合簡単に征伐できたと思われますが、東の高天原は、相当難儀をしたのではないかと想像しています。
 その結果として、磐田原台地に多くの古墳が出現することとなりました。

 始めに書きました、愛鷹山麓、箱根山麓、伊豆半島は、コノハナサクヤヒメが祀られていたことを見て頂こうと、現在、【歴史の不思議】
http://www21.atpages.jp/skeikas/ の「浅間神社」に集めている所です。
もう少し、集った所で、見て頂こうと思っています。
 
 その前に、天皇家と張り合っていた人たちが住んでいた磐田原台地を見て頂こうと思っています。でも、磐田原台地には、本当に、多くの中国人が住んでいた証拠が見付かるかどうかです。
 
 この近くにあった式内社の数を確認して置いて下さい。

東の高天原(9) 西の高天原(2)  歴史各論 [高天原]

日本人、日本民族、大和民族と云う言葉あります。日本民族をキーワードにしてGoogle:で検索しますと
 ①大和民族 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%B0%91%E6%97%8F
 ②日本民族の紀元 http://www.ne.jp/asahi/manazasi/ichi/syakai/ikutumono0102.htm
  が見えます。
 ①に書いてあることは間違っているなと思いました。次に②を見ました。

次のように書いてあります。
 国立総合研究大学院大学の宝来博士はミトコンドリアDNAを用いて、日本人のルーツを研究した。宝来博士の結論は次のようだ。
 「縄文時代に日本列島を担った『縄文人』には、アイヌの人々の祖先と沖縄の人々の祖先、少なくとも2つの集団があった。また、アイヌと沖縄の人々の祖先集団とは別の、おそらく日本列島中部に暮らす別の縄文人集団を想定することができ、それぞれの集団どうしで交流があった」。すなわち「縄文人は多様な集団から構成されていた」(P86)。
 さらにミトコンドリアDNAの分析で、東アジアの集団に大きく5つの遺伝集団が区別できる。「本州の日本人」「アイヌ人」「沖縄の人」「韓国人」「中国人」である。宝来博士はこの5つの遺伝集団が、実際の「国」の集団の中でどのような比率で存在しているかを調べた。その結果は、かなり衝撃的だ。
 本州の日本人集団では、「日本人固有のDNAタイプ」をもつ割合は、わずか4.8%にすぎない。一方「韓国人タイプ」と「中国人タイプ」をあわせた割合は約50%に達した。「アイヌ人タイプ」と「沖縄の人タイプ」をたした割合は約25%になる。 ・・・・

 上記の「日本人固有のDNAタイプ」の意味が解りませんが、日本国土に、石器時代、縄文時代に住んでいた人の子孫は、
①日本人固有のDNAタイプ
②アイヌ人タイプ
③沖縄の人タイプ
 の人になるでしょうか。
 宝来博士の言葉を借りますと、①②③の合計は、29.8%になります。
 
 宝来博士は述べる。「本州の日本人集団が、遺伝的にあまり特徴がなく、むしろ大陸中国や韓国の人々の持つ特徴が非常に多く含まれること、つまり多様な大陸系の集団から成り立つことが判明し、決して遺伝的に均一な集団ではないことが改めて確認されたわけです」(P88)。
 
宝来博士の研究が、すべて正しいかと云いますと、そうでも無い様に思います。何故かと云いますと、宝来氏は、まだ研究が途中だと思います。ここに書いてある所以外から、来た人のことは、少数民であるとして、「日本人固有のDNAタイプ」とされた可能性はあります。私は、稲作は、朝鮮半島からも入ったかも知れませんが、大部分は、雲南省の方から入ったと考えています。そうしますと、日本海側に見られる
 又、アイヌ人タイプ、沖縄の人タイプという分類も荒っぽいと思います。

 始めに紹介しました、「大和民族 」ウィキペディア の方に書いてある〔起源〕の内容は、普通に考えても、荒っぽいものとなっています。
 「現在ではアイヌは大和民族との混血が進み、純血のアイヌはほぼ存在しない」
と書いてありますが、混血が進んだ証拠はありません。
 普通に考えれば、判りますが、現在の日本では、どんどん混血が進むでしょうか。確かに、両親が、外国人と日本人というケースは、増えたでしょうが、では1000年も経ちますと、現在の日本人は、いなくなって、日本民族はいなくなるでしょうか。
  
 大和民族と呼ばれる人は、大和朝廷が存在した時に、大和を中心に居た人達の集団になります。
 大和朝廷がいつできたか知ることは 難しいですが、奈良盆地にいっぱい大きな古墳が出来た頃としますと、その時は、殆どの住民は、中国人であったと考えています。

 この様に、異質の民族が、ひしめき合っていた日本では、こうした異質の人のうち、幾人かの人は、結婚をすることによって、血液は混じることになりました。
 しかし、大まかに分類すると、中国系の人と、其の他に分かれたのではないかという歴史を組み立てています。
 その他の人の政治拠点は、①高天原(その後、高千穂) ②西の高天原 ③東の高天原 ではなかったかと想像しています。

 一方の中国人は、当時、中国を支配していた中国の人が、日本にやって来ていましたから、多くの民族が、中国からやって来た人と云わなければ正確でないと思われます。

 荒っぽく云いますと、現在の日本人の80%は、中国大陸からやって来た人だと思います。

如何でしたか、
①高天原(その後、高千穂) ②西の高天原 ③東の高天原 を違った角度から、眺めて見ました。

東の高天原(8) 西の高天原  歴史各論 [高天原]

今回のテーマは、西の高天原は、田村氏独自のものではないかと考えます。
東の高天原の発見に対して、似たような発想で、九州における神社の分布を分析されたところ、北九州に、「西の高天原」があったとされました。

 時代は、何時かと云いますと、ヒルゼン高原に居た、天照大御神が率いる人たちが、ここを引き払って、鳥取県の高千穂に移動した後の事になります。
 
 ヒルゼン高原は、稲作に適さないだけが理由ではなく、日本全体を眺めた時に、河内や奈良盆地は、中国人に占拠されていました。
 それだけではなく、大陸からの日本へ移住者がどんどん増え、その進出を抑えるために、
天照大御神は、福知山とヒルゼン高原を行き来しますが、それだけでは追いつかず、滋賀県の近江八幡で移動します。
 未だ解明されていませんが、天照大御神は、外の所に、気配りをします。 それは、天照大御神はの孫である瓊々杵命を錦として、鳥取県の高千穂に移動することに決定します。
 
 古事記には、余りトラブルもなく、話合いで解決したように書かれていますが、そのようなことはありません。その証拠として、膨大な古墳が残されています。
 長いこと時間をかけて、絹を取り扱う取り決めをしたのではないかと推察されます。
古事記によると、天照大御神は、天孫降臨を急いだようです。

 それはどうしてかと云いますと、瓊々杵命の兄が、古事記には居たことは書いてありますが、精しいことは書いてありません。詳しいことは、京都府にある籠神社に残されてある記録にあります。
 天火明命は、瓊々杵命に先立ちて、ここに天孫降臨したことになります。まだ、幼い
瓊々杵命をトップにして、降臨します。
 この瓊々杵命が成人に達した時に、天皇家が大勢を立て直しに行ったことが、西の高天原であり、瓊々杵命のお后である木花開耶姫命と后の父である大山祇命が拠点を定めたのが、静岡一帯です。
 どれほどの戦が繰り返されたかは、静岡県の古墳の数が、示しています。

【歴史の不思議】の前方後円墳の分布と静岡の古墳の数をご覧ください。まだまだあります。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page205.html

 田村氏は、静岡神社誌の分析を済ませておられます。
No755神武東征(204)  神武天皇(147) 東の高天原(7) に掲載しています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-04-15

 これを見ますと、大山祇命という人が、どれほど、重要な人物であったかという事が判ります。大山祇命は山の神さんだというようなことがまかり通っている歴史は、なんだろうと思います。

 本当かどうかを現在、調べています。 先ずは、神社の方から、データを集めています。
 【歴史の不思議】
http://www21.atpages.jp/skeikas/page260.html
 毎日、更新していますから、毎日、ごらんださい。完成したものを見ても意味がありません。掲載してある神社を全て行って、精しいことを調べませんと、各論の完成にならないと考えます。
 
籠神社のことは、偶然、日本史 五色塚古墳はイザナギのお墓 イザナミのお墓(125)目印-日御碕(106)丹波国吉佐宮(16
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2745516/ に書いていますので、平行して読んで頂ければと思います。

東の高天原(7) 各国の神社誌 歴史各論 [高天原]

田村誠一氏が、どのようにして、「東の高天原」があると思われたか、田村氏の著書を見ながら、推察してきました。
 著書を全部読みますと、分かるかと云えば判りません。

膨大な日本の歴史に触れることによって、ご自分なりの日本の歴史が、見えるように思われたのだと思います。
 しかし、残念ながら、誰一人として、認める人はおられなかったように思います。
 
 もう少し、続けますと、膨大な日本の歴史には、どの様に触れられたかを私なりに分類しますと、
①古事記を一生懸命に読む。
②古事記に登場する地名は、すべて、地図上にあることを確かめた。
③その地名のある所は、すべて、車で行かれたようです。
④行ったところには、必ず、神社が有りました。
⑤各県の神社誌を読み始める。そして、全体を検討する。
⑥歴史書を読み始める。

 以上のことを同時進行で行うことによって、次々と、誰もが云わなかったことを、発見、手当り次第に頭を突っ込んでから、4年経過したころから、冊子に書き始めることになります。
 現在でも、誰一人として、認められませんが、書かれたことは、「新しい日本の歴史」です。

 ①古事記に書いてあったことは、正しかった。(天皇家のお家事情が書かれたもの)
 ②日本書紀に書いてあったことも、正しかった が、藤原氏が、日本を征服した時の記念誌である。
③邪馬台国の所在地解明---岡山県の西大寺の辺り。 日本に侵略した魏の国の人が考えていた国。 
魏志倭人伝の謎解き Ⅲ
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/06/post-d834.html

④三角縁神獣鏡が教えてくれること----当初は魏の国が、日本に派遣した人の身分証明書のようなものであった。この身分証明書は、日本と中国の間で絹の収集、輸送、販売の権利を持つために必要なものであった。
⑤墳墓から出土した鏡---出土したところには、中国人が住んでいた。
⑥銅鐸は、イザナギ、イザナミの一族が大切にしていたものである。
⑦式内社は、藤原氏が、構築した軍事施設であり、世界に輸出された絹の集積所であった。
⑧以上のことは、古代の事だけではなく、現代の経済・文化に影響を残している。

タイトルの「各国の神社誌」は、消えてしまいました。
しかし、神社誌の分析無くして、東の高天原の存在を証明するものは、無いと思います。

東の高天原(6) 高天原はヒルゼン高原 歴史各論 [高天原]

田村氏が「高天原は日留山高原だった」は、正しいと思われたか、正しくないと思われかは、よく判りません。
 どんどん筆を進めておられます。

 第一話に限らず、全部、一ページで完結の文章になっています。 そのページには、それぞれのタイトルが付けられています。
 めぐりあい 表参道(1)  表参道(2)  表参道(3)  表参道(4)  表参道(5)  表参道(6)
 表参道シリーズは、ヒルゼン高原の地理を知るために勉強されたことを書いておられる。
 大げさに言えば、大発見をした事を記しておられます。
 
 10ページからは、ヒルゼンは湖底だった、 山の辺の道、四ツ塚古墳、最古の稲作地帯、水が多すぎたヒルゼン、山中一揆(1)、山中一揆(2)、水がなかったヒルゼン、
18ページから、神々のふるさと(1)、神々のふるさと(2)常世の国、 セン・トウゲ・タワ

22ページから 動物に囲まれたヒルゼン(1)  動物に囲まれたヒルゼン(2) 天の原、天の浮橋、 高天原、真名井、田植え祭

29ページから、津山、倉吉、勝山、大山、蒜山、米子、西大寺、大江山の地図が続きます。

 ご自分が、気になった所の地名に〇を付けておられますが、字が小さくて読めません。
 蒜山は、2ページにわたって掲載してあるのに、〔天王〕と〔神戸〕と〔社〕の地名だけです。
 セカンドハウスは、ヒルゼン高原の福田というところにありましたから、福田とか大宮大明神に○印があっても良いのですが、よく判りません。
 少なくとも、上に書きました、8ヶ所の地図を掲載して居られます
国土地理院「大江山」には、天座、皇大神社、内宮などにも印が付いていますから、第1話を書かれた時には、これらの事は、頭に、すでに、入れて整理もついていたことになります。

一ページごとに完結の文になっています。たったこれだけの事を書くためには、どれほどの参考書をよまれたのかと驚きます。
 このようなことを考えながら、
田村誠一著  第一話 神々のふるさと ヒルゼン --めぐりあい
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/post_4854.html
 を読んでください。

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