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「 汝は海原を治せ」   68  -100- [真説 建国史]

スサノオ命は伯耆の東伯郡を治める様に命令されました。原文では「 汝は海原を知らせ」と書かれている。河原とは河の中ではなくて河のほとりの原のことだ。高天原で海原といえば、倉敷平野のことである。 スサノオ命はこの命令に不服で赴任しないで号泣ばかりしていた。この時スサノオ命はすでに老令だったので、ここに落着きたかった。 イザナギ命はスサノオ命が西伯郡で勢力が強くなりすぎるのを恐れた。又東伯郡には既に漢族が東郷湖付近に進出して来て拠点を築いていたので是を征伐させたかった。この当時東郷湖は入海で従って港だった。 イザナギ命がスサノオ命に号泣の理由を聞いた所「母の国の根の堅州」に行きたいと答えたので、イザナギ命は激怒して外国に立去れと命令した。 この命令が終わるとイザナギ命は近江八幡市の多賀に移られここに宮内すななはち御所を置いて中山王国からの亡命者を支配した。

---私のコメント---
海原といえば、倉敷平野のことである。
  これはどの様に思われますか。
古くは濁らないで、「うなはら」と読み、広々とした海のことを云います。広い海の水面のようにも使います。 ここ古事記では、海を治めると翻訳したのでは、意味をなさないので、海の原、すなわち、海岸も含めて、ヒルゼン高原から日本海に降りた所、即ち、倉敷平野と翻訳しても良いのではないかと思われます。
 (高天原が九州だとされた方は、スサノオは何処を治めることにされているのでしょう。月読命も同じことです。田村誠一氏は丹波の天田郡の夜久野だと限定しておられます。古事記に書いてあることが、神話だとすると、どこでも良いことになります。もし、太安万侶が、このように書いていなくて、正確な場所を書いておれば、大江町の伊勢大神宮は存在してなかったと思います)

②「スサノオ命はこの命令に不服で赴任しないで号泣ばかりしていた。この時スサノオ命はすでに老令だったので、ここに落着きたかった」の部分は、このようには、古事記の何所に書いてあるでしょうか。
このページだけでは、このような翻訳は出来ないと思います。
しかし、別の所に、高麗村の唐王に住んでいたことが神社の資料からから解ります。

③「この命令が終わるとイザナギ命は近江八幡市の多賀に移られここに宮内すなはち御所を置いて中山王国からの亡命者を支配した」

①②③の事から、スサノオ命は、倉敷平野当りを支配するように命令されたのですが、上の様な翻訳は無理の様に思われます。

田村誠一氏は、翻訳は難しいですから、解説の積りで書かれたのではないかと推察します。

西域の月氏からの亡命者、月読命   67  -99- [真説 建国史]

 イザナギ命の急を聞いて、多くの神がかけつけたのである。イザナギ命は三人の大王クラスの神が来られたので大変喜ばれて夫々の治める国を定めた。天照大御神には高天原を治めと命令された。この神は揚子江を降って渡来された大王である。恐らく周の時代の太伯の子孫と考えてよいだろう。 月読命は丹波の天田郡の夜久野を治めよと命令された。古事記には「夜之食国とあったが「夜食之」なら夜久野でよかった。天田郡と天がつくのは雲南に縁がある地名で、ここには月読命を祀った神社が数社あった。この隣りの大江町に伊勢大神宮があって月読命も祀られていた。紀元前174年に西域で月氏が匈奴に追われた事件があった。ヒルゼン周辺の山は仏教の須弥山式に山をセンと発音させている。大山、蒜山、烏ヶ山、氷山、仏ヶ仙等がその例で仏教を知っていた人が渡来して来たと考えられる。しかも月氏と月読命は月の字が共通していた。  恐らく絹を運んでいたユダヤ人から、東に楽土があると聞いてはるばる渡来したのだろう。

---私のコメント---
①「イザナギ命の急を聞いて、多くの神がかけつけたのである」とは上手く古事記を翻訳されたものです。
「古事記を読む」とのタイトルの本は沢山出ています。私も始めて『新しい古事記の読み方』のタイトルの本を100冊作りました。164ページ¥1000でした。神代の半分を書き、次回で、神代は完結と思っていましたが、一冊2400円もの原価が掛り、一札も売れませんでした。無料で貰って貰いましたが、気が付きましたら、手元に二冊しかありませんでした。
無料は駄目ですね。「読まなくなりましたら、古書店で売って下さい」とお願いしましたが、皆さん、捨てられたのでしょう。見付かりません。

読み返して見れば、なかなか面白いと思うのですが、お渡しした人で、「面白かった」と云われた方は、ゼロでした。


古事記では、
イザナギ命が左の御目を洗っている時にやって来た神が天照大御神で、右の目を洗っている時にやって来た神が月読命で、御鼻を洗っている時やって来た神がスサノオ命である。これは殆ど同時にやって来たことだ。


<大山の南麓で行ったみそぎ>で紹介しましたね。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-01-03
 イザナギ命が左の御目を洗っている時にやって来た神が天照大御神で・・・・。
 こんな馬鹿げた話は、100パーセント有り得ない話です。

なのに、日本書紀を書いた人も、同じように書きました。もし、同じ様に古事記に書いてあったことを理解したのであれば、その前の文章も同じの筈です。

ところは、イザナギ命が禊をしたのは、中河原です。日本書紀が書いたのは、河ではなくて、海の中の瀬で禊をしたと書いています。
そのようなことは、出来るでしょうか。海面でも無く、海の底でも無く、その中間の所で、浮きながら、禊をしたことになりました。
日本書紀の作者は、イザナギ命が左目を洗った時に、天照大神が生れたと古事記と同じ様に書きました。 但し、天照大御神ではなくて、「御」を抜いて、天照大神と記しました。

太安万侶は、天照大御神がやって来たと書かないで、「成れる神」と書きましたから、日本書紀の作者は、「生れた」と書きました。

②長くなりましたので、省略しますが、どのように考えますと、月読命が匈奴に追われて日本にやって来たことになるのでしょう。
天田郡の夜久野がヒントになるらしいです。そして、大江町の伊勢大神宮もヒントになるらしいです。 是非、訪れてください。

大山の南麓で行ったみそぎ   その3 [真説 建国史]

 前回、書き切れませんでしたので、今回は、その3です。
もう一度、田村誠一氏の原文を書きます。

イザナギ命がみそぎをされた江府町の中河原の隣りの大河原神社に底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三人の神が祀られていた。又近くの吉原の吉原神社に底筒男命、中筒男命、表筒男命の三人が祀られている。これは古事記でみそぎの時に現われる6人と一致していた。これらの神は本来は航海や海に縁がある神だから海岸に祀られるのが常識なのに、海抜500米の描写通りの場所にあったことは、この神社は二千年以上古い神社であると考える他ない証拠である。 この記述は日本書紀では神名も一致しないし海でみそぎをしたことになっていた。日本書紀の記述に基いて神社を建てたとはいえなかった。これこそ古事記がいかに忠実に情景を描写したかの例で、この一事でも古事記を偽書とした根拠はなくなったと考えるべきだ。 イザナギ命が左の御目を洗っている時にやって来た神が天照大御神で、右の目を洗っている時にやって来た神が月読命で、御鼻を洗っている時やって来た神がスサノオ命である。これは殆ど同時にやって来たことだ


---私のコメント---
 「凄い事が書いてありますね」の文章で、書きましたが、どこが凄かったかお分かりでしたか。 
①~③と、三つにわけて書きました。

「この神社は二千年以上古い神社であると考える他ない証拠である」
この2000年がどれぐらい古いのか、説明とようとしたら、上手く説明出来ないのです。
今年は2016年ですから、2000年程前といいますと、なんとなく分るのですが、実感がわかないのです。説明したものの、実感がわかないので、昨日(3日)、大阪府の住吉大社に行ってきました。

住吉大社は、大阪市住吉区住吉町にある 摂津国の一宮です。
祭神は、(ウィキペデイァ参考)
底筒男命 (そこつつのおのみこと)---- この読み方は、古事記には、底筒之男命と書いてありますから、読むことが出来ますが、どうして、男だけを「お」と読むのでしょうね。

中筒男命 (なかつつのおのみこと)
表筒男命 (うわつつのおのみこと)
神功皇后
 です。何故、三人の神さんと神功皇后が一緒にまつられているのか良く解りません。

どれだけ偉い神さんか知りませんですが、地元ですから、何度もお参りしていますが、3日に行ったのは初めてでした。大阪駅から、地下鉄に乗って、アベノ迄行き、阪堺電車に乗りますと、「すみよしさん」の駅前です。 
地下鉄を降りましたら、降りた所から、阪堺線に乗る為の人の列が何重にも続いていました。待ち時間を聞きました所、30分でしたが、信用できないので、バスに変更です。バスは待ちの景色が見えるので、バスに決めました。バスは、私の知っている所から、どんどん外れる許で、又、乗り変えたりして、到着したのが、2時間半後でした。

どうでも良い様な事を書きましたが、どの道からも、「すみよしさん」に向かう人ばかりだったことを知りました。

全国には、住吉神社が600社程あります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE

普通に考えますと、大阪のこの地にやって来た底筒男命、中筒男命、表筒男命を先祖として祀る人達が、上陸して、その後、全国の600ヶ所に散っていた人が、各地で住んでいることになります。

 それでは、それが何時の事かと云いますと、どこの住吉神社にも、判っていないと思います。
 住吉大社は、「式内社」ですから、式内社と定められた延喜式神名帳が完成した927年には、存在していたことは確かです。 

しかし、田村氏は、
江府町の吉原にある吉原神社の祭神も、底筒男命、中筒男命、表筒男命で在ることが、2000年前から、住吉大社が在った証拠だと述べておられることになります。

では、吉原神社の人達は、こんな山の上で、どのような仕事をしていたのかと云いますと、・・・それは、先ず、一番に吉原神社に行って、氏子の皆さんに聞くことです。この神は、イザナギが、海で禊をしていた時に、底から生まれた神が底筒男命です。と云うことは、海の神なのに、どうして、江府町の吉原神社で祀られているのでしょう。
それこそ、その証拠を知る為に、全国で祀られている600社の神社を調べると解決するのではないでしょうか。






大山の南麓で行ったみそぎ   その2 [真説 建国史]

前回、書き切れませんでしたので、今回は、その2です。
もう一度、田村誠一氏の原文を書きます。

イザナギ命がみそぎをされた江府町の中河原の隣りの大河原神社に底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三人の神が祀られていた。又近くの吉原の吉原神社に底筒男命、中筒男命、表筒男命の三人が祀られている。これは古事記でみそぎの時に現われる6人と一致していた。これらの神は本来は航海や海に縁がある神だから海岸に祀られるのが常識なのに、海抜500米の描写通りの場所にあったことは、この神社は二千年以上古い神社であると考える他ない証拠である。 この記述は日本書紀では神名も一致しないし海でみそぎをしたことになっていた。日本書紀の記述に基いて神社を建てたとはいえなかった。これこそ古事記がいかに忠実に情景を描写したかの例で、この一事でも古事記を偽書とした根拠はなくなったと考えるべきだ。 イザナギ命が左の御目を洗っている時にやって来た神が天照大御神で、右の目を洗っている時にやって来た神が月読命で、御鼻を洗っている時やって来た神がスサノオ命である。これは殆ど同時にやって来たことだ。


---私のコメント--- 「凄い事が書いてありますね」の文章で、書きましたが、どこが凄かったかお分かりでしたか。 ①~③と、三つにわけて書きました。
①は 「この神社は二千年以上古い神社であると考える他ない証拠である」
と書きました。 2000年前は、どれぐらいの頃かと書き始めましたら、よく解らないので、一番古い神武天皇のことを書けばいいと思いました。
すると、神武天皇は
庚午年(ユリウス暦紀元前711年2月13日) - 神武天皇、初代天皇(+ 紀元前585年)
とありました。 これは、ウィキペディアに書かれていることをコピーしました。
始めに、庚午年とありますね。これは、古事記に書いてあるのです。

又、ウィキペディアから拝借しますと、
庚午(かのえうま、こうご)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの7番目で、前は己巳、次は辛未である。
西暦年を60で割って10が余る年が庚午の年となる。

紀元後で一番にある庚午は、西暦10年です。 次は、西暦70年です。
紀元前は、50年です。その前は、110年です。

と云うことで、神武天皇の誕生日は、紀元前、110年か、紀元前50年か、紀元後、10年か、紀元後70年の辺りの年となります。

神武天皇が、実在しなかったと云われる歴史家は、このような話はどうでも良い事になります。

別に、それが正しいと思われるのでしたら、それでも、良いのですが、始めの10人の天皇が、実在しなかったとすれば、一人の天皇が、20年に一人おられたと仮定しますと、日本の歴史の内、始めの200年は、不明と云うことになります。
実在された天皇としますと、古事記には、神武天皇が、日本を治めるとき、云うことを聞かない連中をやっつける為に、戦争に出かけたことになっています。

ウィキペディアによると、次の様になります。
岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
これだけで、16年です。この後、ナカスネヒコとの戦いや、宮城を柏原に定めるまでにも、日数を要しています。

『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。

では、神武神武東征は、いつ頃に行われたかと云いますと、これまでに書きましたことを満足する神武天皇の年令を考慮しますと、
神武天皇は、紀元前50年に生れて、33歳の頃に、鳥取県の日向を出発し、17年を掛けて、神武東征を完了したことになります。(日向というちめいは、太陽の良く当たる所に付けられた地名ですから、あちこちに見つかります。私は筑紫の日向ではないと考えます)

東征が完了したのは、何時かと云いますと、西暦元年1月1日です。

 書いてきました文章のうち、最後の部分は、私の書きました『西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日』に書きました。

西暦元年一月一日は、何時、誰が決めたかを調べて下さい。どこにも書いてないと思います。(世界を含め?)
これは、日本にやって来ていたユダヤ人が、絹の取引をする為に、世界の交易地で必要だったから、使っていただけで、暦の名前もなかったと推理しています。
この本の元になったのは、『神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した』の本に書きました。

大山の南麓で行ったみそぎ   66  -98- [真説 建国史]

イザナギ命がみそぎをされた江府町の中河原の隣りの大河原神社に底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三人の神が祀られていた。又近くの吉原の吉原神社に底筒男命、中筒男命、表筒男命の三人が祀られている。これは古事記でみそぎの時に現われる6人と一致していた。これらの神は本来は航海や海に縁がある神だから海岸に祀られるのが常識なのに、海抜500米の描写通りの場所にあったことは、この神社は二千年以上古い神社であると考える他ない証拠である。
この記述は日本書紀では神名も一致しないし海でみそぎをしたことになっていた。日本書紀の記述に基いて神社を建てたとはいえなかった。これこそ古事記がいかに忠実に情景を描写したかの例で、この一事でも古事記を偽書とした根拠はなくなったと考えるべきだ。
イザナギ命が左の御目を洗っている時にやって来た神が天照大御神で、右の目を洗っている時にやって来た神が月読命で、御鼻を洗っている時やって来た神がスサノオ命である。これは殆ど同時にやって来たことだ。



---私のコメント---
① 凄い事が書いてありますね。
「この神社は二千年以上古い神社であると考える他ない証拠である」

2000年以上古いとは、どの時代でしょうか。今が、2015年ですら、紀元後15年です。
なに時代だと思われますか。日本では云いにくいでしょう。中国ですと、秦の時代は、紀元前200年以前、その後に、前漢が200年あります。この辺りが、紀元後です。
 日本では、弥生時代でしょうか。 違うでしょう。神武天皇かの誕生は、ウィキペディアによりますと、

庚午年(ユリウス暦紀元前711年2月13日) - 神武天皇、初代天皇(+ 紀元前585年)
とありました。しかし、これはおかしいですね。紀元585年前ですと、前漢よりまだ古い時代になります。

こんな古い時代のことは良く分っていません。神武天皇どころか、始めの10代は、実在しなかった天皇とされています。しかし、神武天皇天皇を祀る神社は、全国に一杯在ります。

次のプロの歴史家ですと、このお話が、正しいらしいです。

次の一覧表は、私が作成したものです。(正確にいいますと、借用して掲載)
神武天皇を祭った神社
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html

実在しなかった神武天皇がどうして、これだけ全国で祀られているのでしょう。
この表を眺めますと、
神社がある府県は、九州が多いです。その中に、岡山県が多いです。岡山県と云っても、殆ど聞いたことの無い地名です。

「真庭郡八束村」で検索して戴きますと、鳥取県と県境にある村です。 ヒルゼン高原です。 ここは、古事記に登場する高天原ではないかと考えています。

古事記は、始めの頃は、多くの神の名前が、記されていますが、始めの神は、高天原を建設した神ですが、高天原が完成しますと、イザナギ命とイザナミ命に、建国が任せられます。

幾人かの神が登場した暁には、神武天皇の誕生です。

神武天皇を祀っている神社では、神武天皇と何らかの関係が在ったと考えますと、どうして、九州なのか、どうして岡山県なのかの疑問が、解けることになります。

② 又、凄い事が書いてありますね。
「この記述は日本書紀では神名も一致しないし海でみそぎをしたことになっていた。日本書紀の記述に基いて神社を建てたとはいえなかった」

古事記には、イザナギ命が、河でみそぎをしたと書いてあります。 勿論、私は、日本書紀にも、河でみそぎをしたと書いてあると思っていました。始めて確かめました。海でみそぎをしたとは書いてありませんが、よく読みますと、河ではない様です。 どうみても、海で禊をしたことの様です。
③ 「イザナギ命が左の御目を洗っている時にやって来た神が天照大御神で、右の目を洗っている時にやって来た神が月読命で、御鼻を洗っている時やって来た神がスサノオ命である」

この話題は、みなさんご存じですね。こんな馬鹿なことは有り得ないでしょう。これは間違いなく、日本の歴史ではなくて、神話でしかないでしょう。

どうして、太安万侶は、このようなことを書いたのでしょう。

同じ箇所を、古事記と日本書紀とで読み比べて下さい。

現在のプロの歴史家は、古事記は偽書であって、日本書紀を見ながら、古事記を創作したと書いて居られます。
その為に、日本書紀には、他の一書と書かれた部分が多いのだと。また、古事記は、平安時代に作られたのだと。

日本書紀を読んで、古事記の文章が作れるかどうか確かめてください。

ヒントは、前回の「筑紫の日向の淡き原は大山三の沢」にあります。理解出来なかった方は、
御墓原→白水川→江府町の中河原 →ヒルゼン高原と、イザナギ命が歩かれたコースを歩いて、古事記に書いてある景色を見ことができるかどうか、確かめてください。 何も無かった所に、家が一杯建っているかも知れません。

筑紫の日向の淡き原は大山三の沢   65  -97- [真説 建国史]

御墓原のすぐ東の山が鬼住山でここに中国人が住んでいた。この鬼と雷神とイザナミ命がイザナギを殺そうとして追跡した。
日野郡の楽々福神社等の由緒に、孝霊天皇が大吉備津彦命と、若建吉備津彦命と共に、鬼住山や鬼を征伐していたと書かれてこの鬼は漢の侵略軍のことだった。
イザナギ命は高天原に逃げやっと追撃して来た鬼を途中で桃の実を投げてしりぞけた。けがれたので現在は江府町の中河原付近の川でみそぎをされた。
「筑紫の日向の橘の小門の淡き原」でみそぎをされたと書かれている。この様な場所の表示方法が古事記独特で、この謎を解けば場所が確定できる。先づ大山には一の沢から三の沢まで殆んど水が流れてない砂の河原がある。これが草淡き原である。筑紫とは「木尽し」を省略したので木が生えてない所だ。橘の木の下をくぐり抜けた木が生えてなくて沢になっていて、しかも日当たりがよい所が中河原である。中ツ瀬にはもぐって水浴したと書かれていた。




---私のコメント---
次の文章は、他の著書にも書いてあったので、実際に行ってみようと思ったのですが、ヒルゼン高原と岡山市は、広大過ぎて、走る廻るだけで、日数を費やしてしまいました。

先づ大山には一の沢から三の沢まで殆んど水が流れてない砂の河原がある。これが草淡き原である。筑紫とは「木尽し」を省略したので木が生えてない所だ。橘の木の下をくぐり抜けた木が生えてなくて沢になっていて、しかも日当たりがよい所が中河原である

「御墓原 地図」で検索してください。
http://www.mapion.co.jp/m2/35.34786229,133.40455365,16/poi=L0639837

東に伯耆溝口の駅が在ります。 その東に、鬼住山が在ります。この地図には書いてありませんが、伯耆溝口から北へ行きますと、東から流れ込む川があります。この川は、「白水川」と呼ばれています。
名前に「白」が付いている地名は、「白王」と云う様に、イザナミに関係が多い事が分ります。 このように書きましたら、「白浜」はイザナギに関係があるのかと叱られた事があります。中には在るかもしれません。
この白水川を遡って行きますと、中河原という地名が在ります。

県道 45号線をどんどん東へ行きますと、蒜山高原に到達します。上福田、中福田という地名もあります。
イザナギは、ヒルゼン高原にいましたが、イザナミを探して、「御墓原」でイザナミを見付けました。

イザナギは、イザナミや鬼に追いかけられます。そして、ヒルゼン高原に戻る途中の川で禊をしました。

鬼林山も探してください。
この場所は、稗田阿礼が、この辺りの神社を訪れたのだと思いました。東楽楽福神社の近くです。
せめて、この神社の事だけでも、調べてみようと、書き残しています。

楽楽福神社
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1301.html 
天皇家と関係ある事柄が一杯の所です。

稗田阿礼は、古事記を書くために、天皇と関係がある神社は、全部歩き廻り、古老から聞いて、見て、すべて、太安万侶に報告したのではないでしょうか。

これらの情報をすべて、織り込んで、太安万侶が古事記を作ったのだと推理しています。
従いまして、旅行記ではありませんが、神話ではないと思います。

古事記に出て来る地名は、現在でも、伯耆の国には、一杯残っています。

黄泉国(夜見国)の御墓原   64  -96- [真説 建国史]

 イザナギ命とイザナミ命は御所が出来上がると始めて夫婦の営みを行った。しかし最初の子供は流産で水蛭子(ヒルゴ)と呼んだ。現在の水子のことで葦で舟を作って流した。この風習が鳥取市を流れる千代川の中流の流しびなである。
 二度目のお産も難産で目から火が出る苦しみを味わられた。この子をイザナギが首を斬ってむしまわれた。この子がカグツチ神で霊を慰めるために愛宕神社や愛宕山の名前が生れた。
 難産だったイザナミ命は西伯郡溝口町の御墓原に移された。ここは原と地名がなっているが、もがりの為の山である。黄泉国と書かれていたが、伯耆の神社の由緒からこの日野郡は黄泉国だったことが分った。黄泉の平良坂とは日野郡の三平山の斜面のことで、藤原朝臣が偽証目的で「出雲の伊賦坂なり」と注を入れたのであった。
 イザナギ命は御墓原にイザナミ命を見舞いに行かれた所、イザナミは雷神すなはち中国人のボス達に囲まれていた。


---私のコメント---
① この部分、現在の人にとっては、少し難しいことが書かれていて、数行で説明を加えるわけにはいきません。例えば、「水蛭子(ヒルゴ)と呼んだ。現在の水子」は今でも、生まれる可能性はあり、言葉も存在しますが、知っている人は、少ないと思います。

②「千代川の中流の流しびな」は上手く表現されましたが、流し雛は、全国に見られます。和歌山県
  の加太の雛流しは、海岸から、海に流します。

3月3日和歌山市加太 『淡嶋神社』の雛祭り・雛流し
 http://4travel.jp/travelogue/10754076
 古事記とは関係がないようです。

③京都の愛宕神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 全国に900社ある愛宕神社の総本社と説明が有りますが、カグツチ神の霊を慰める為に、
 どうして、全国で祀られているのか、その土地との関係が分りません。

④ 「西伯郡溝口町の御墓原に移された」の部分は、下剤の地図にも、この地名は残っていると思います。    死んだひとは、黄泉国に行きますが、ここの食事である「黄泉戸喫」を食べた人は、元の人間の世界に   は帰ってこれなくなります。
   それでも、イザナギ命はもまだ、残して来たことがあるので、戻ってきてほしいと頼みます。
   イザナミは後をついてこないと約束をさせて、もう一度、高天原に戻ることの許可を得に行きます。  

 
 こんな馬鹿げた話は、有り得ませんから、歴史家の皆さんは、「神話」だと決めつけていますが、この話は、 当時の人が、信じて、お墓に、「黄泉戸喫」を作る為の道具を持ち込みました。
 古事記では、「黄泉戸喫」。日本書紀では、「サンズイ+食 之竈(よもつぐい)」
 又、『日本霊異記』には、「慎 黄竈火物莫食」という言葉見られます。
 
 6世紀の前葉のころに大津市北郊に作られた古墳群には、この「黄泉戸喫」を作る為の道具として、三点  セットのミニチュアの炊飯具が見付かっています。
 
大津市歴史レ博物館
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/annai/nenpou_file/03_kikaku/list/03_K55_chityukaranookurimono_list.pdf

⑤藤原朝臣が偽証目的で「出雲の伊賦坂なり」と注を入れたのであった。

  この部分を立証するのは難しいですが、「出雲の伊賦坂なり」はおかしいです。「御墓原」は、出雲ではあ  りません。この一言で、日本中の歴史家は騙されました。 

次のお二人も騙された方だと思います。 一度、読んで下さい。

古事記「黄泉比良坂」(小学国史物語 ; 2) / 新免忠著 (紅玉堂書店, 1926)
出雲神話「黄泉比良坂」後藤蔵四郎著 (島根県教育会事務所, 1938)






雲海への出島だったオノゴロ島   63  -95- [真説 建国史]

 古事記では高天原にわざわざタカアマハラと読む様注が入れてあった。これはヒルゼンに関係あるものの天はアマと発音すべきことで天の沼矛、天の詔琴、天の鳥船と区別するとを教えてくれた。
天の浮橋、天の香山、天の真名井、天の金山等の天だけはアマと読むべきだった。
 天の沼矛とは雲南から持って来た沼を開墾する矛状のシヤベルのことだ。天の詔琴は正倉院の五弦の楽器であり天の鳥船は帆船と考えればよい。
 イザナギ命は高天原に到着するとイザナミ命と力を協せて中蒜山の中腹の海抜679米の台地を作った。これがオノゴロ島と書かれヒルゼン特有の雲海に突出た出島を作った。
 古事記ではわざわざオノゴロ島は、一般の島と異なると注が入れてあった。雲海を天の浮橋と書いていた。
 塩をふり注いで台地を作ったとあるが塩を取った形跡のくぼ地が塩釜と呼ばれ、ここに天の真名井のほこらがある。真名井とは真水の名水の泉のことで、ここが旭川の源流だ。


 ---私のコメント--- 少し長いですが、次のところにも関連の記事を書いています。
これは私の記事です。
淤能碁呂島は、蒜山高原にあった
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page153.html


No453天孫降臨(26)  天若日子(5)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2008-10-20

ヒルゼンの初春の描写が書き出し   62  -94- [真説 建国史]

古事記の書き出しは神話ではなしに実話として理解する努力が望ましい。書き出しは
「新天地を開発しようとして高天原にやって来た神は天の御中主神、高御産巣日神、神産巣日神で、この神は独身で他所に移って行った。次に春の初めで雪が樹の枝に浮脂の様に残ってクラゲが漂っている様に見える頃、葦の新芽がきばの様に萌え始めた頃に渡来したはウマシアシカビヒコジ神、次に天の常立神でこの二人の神も独身で去っていった。
 これらの五人の神は天神とは別である。」
 この次に渡来した神々はイザナギ命とイザナミ命達で、この様な夫婦は二人で一代すなはち一世帯と勘定するように書かれている。
 高天原を訪れて立去った神々が隠岐の海士村の宮田神社に祀られていたと今一つは鳥取市を流れる千代川の源の智頭町の那岐神社に祀られていた。
 これだけの事実でも古事記を神話として葬り去ることは許されないだろう。同時に稗田阿礼が現地に赴いて取材しなければ分からない情報である。このような情景の描写が各所にあることが一般の史書等と全く異なる点だ。


---私のコメント---
「鳥取市を流れる千代川の源の智頭町の那岐神社に祀られていた」
同じようなことが、田村氏の著書のどこかに書いてありましたので、私も行ってきました。このときは、まだ、カーナビがないときでした。地図を頼りに車を走らせましたら、山超えとなり、凄い坂道を下っていきましたところ、家があちこちに見えてきたときは、ほっとしました。それと、道にいっぱい車が止まっていて、私も車を止めて、一服しますと、拡声器から声が聞こえてきました。どうやら、小学校で運動会のようなことをしているようでした。

 小さな橋を渡ったところに、那岐神社がありました。神主さんが出てこられたら、なにかお話をお聞きしようと思いましたが、その機会はありませんでした。
 一時間ほどいたでしょうか。今でも、その時のことを覚えています。 随分遠くて、半日を要しました。 
「このような情景の描写が各所にあること」 これは、昔から那岐神社これらの神々を祀っているだけでは、説明がつかないでしょう。稗田阿礼が、この神社にやって来たと考えるしかないと思いました。

お伽話より面白いヒルゼンの地名   61  -93- [真説 建国史]

 国土地理院の大山・蒜山集成図を古代史に興味ある方には、お奨めしたい。ヒルゼンは一部この地図から欠けるから、湯本の地図も併用願いたい。この地図の範囲が偶然にも古事記の神代の舞台である。
 ヒルゼンには宮城、宮田、宮脇、宮沢と宮が付く地名が多い。又鳥居、笠木、祝詞、社田、堂前、堂上、擬宝珠山の様に神社に関係がある地名が多い。雲南では村の入口に鳥居があるが、ヒルゼンの表玄関は鳥居峠である。
 犬挟峠、犬畑峠、鳥居峠、熊居峠、蛇ヶ山、烏山、蛭山、天狗山、鷲ヶ山、鳩ヶ原、大蛇の地名はすべて動物に縁がある。
 ヒルゼン周辺の山は大山、蒜山、烏ヶ山、鷲ヶ山、仏ヶ山、氷ヶ山、(兵庫県境)と殆んどが、仏教の須弥山と同じ読み方である。
 ヒルゼンの広い地域が上、中、下蒜山式に上、中、下福田である。
 この福は福建省の福と共通で伯耆には福がつく地名が多い。
 天王川、天谷川があり、奴国からはこの川が降らないと高天原には来られない。苗代に少彦名名命、白髪には猿田彦命がおった。


----コメント--- 
読んで、フン~と思ったり、そんなバカだと思われた方は、日本中の地名全部を調らべればお分かりになる筈です。 私は滋賀県の小字を全部入力して、「大将軍」という地名が何処にあるかを 一瞬にして、検索できるようにしていましたが、コンピューターが壊れてて、使えなくなりました。 こんな調子ですと、10年がんばっても、全国版は完成しません。
完成しますと、いろいろ調べることが出来ます。
 滋賀県の小字・大将軍  http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page329.html
そして、次の文章も書きました。
大将軍を探る ---http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page195.html

ヒルゼン周辺の山は大山、蒜山、烏ヶ山、鷲ヶ山、仏ヶ山、氷ヶ山、(兵庫県境)と殆んどが、仏教の須弥山と同じ読み方である。 

これだけで、仏教は日本で最初にヒルゼンに伝えられて、そのまま、子孫は、ヒルゼンに住んで居られる筈です。 全員が血液検査をされますと、判明する筈です。

ヒルゼンの広い地域が上、中、下蒜山式に上、中、下福田である。 
これも確かめて下さい。地図では、地名は見付かりますが、稲を作っているかどうかは、行ってみませんと解りません。
 田はなくても、地名は残っていることをヒルゼン高原に行って確かめてください。 行くなら、古事記に書いてある、次の頃です。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。


 解った結果は、インターネットで報告してください。 私のメールに送ってくださっても良いです。
 o-mino@nifty.com

古代史がこんな所から解明出来る筈です。
 
 日本には、福建省の出身の方が多いと思います。 本当は、福建省の方は、日本人と同じで、苗族ですから、性格は真面目で、辛抱強く、大人しい人種です。 なのに、尖閣諸島が問題になった時に、一番に尖閣諸島に乗り込んで、中国の島であることを宣言すると、そして、にくい日本をやっつけるのだと・・・・。希望者が多かったそうです。

 日本在住の中国人は、60万人を超えると思いますが、福建省の人は、日本人と気が合い、仲良く出来る筈です。福建省の人は、特に、この辺りの古代史を勉強されますと、日本で住んでいるのが、楽しくなる筈です。
 福建省のお向かいは、台湾です。 台湾は、中国ではありません。日本人は、台湾の人とも、仲よく出来る筈です。台湾出身の人も日本の古代史を勉強してください。
 そして、お金を儲けて、台湾の人に教えてあげてください。

犬挟峠、犬畑峠、鳥居峠、熊居峠、蛇ヶ山、烏山、蛭山、天狗山、鷲ヶ山、鳩ヶ原、大蛇の地名はすべて動物に縁がある。
 と言うことは、他にも多い所が有る筈です。 共通点が見つかりますと、 誰がすんでいたか分ります。

 種を明かせば イザナギとイザナミが住んでいました。 
古事記を読んでください。 天の浮橋に立って、建国したことが書いてあります。天の浮橋は ヒルゼン高原の雲海の事です。
 行かれた時は、中ヒルゼンの五合目まで登ってください。 見れないときは、見れるまで、滞在してください。



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