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稲田姫を祀った稲田神社と須賀神社   77  -109- [真説 建国史]

スサノオ命は仁多郡横田町大呂の製鉄職人を退治すると大原郡須賀に宮を築いて稲田姫を妃にして暮した。このあと再びもとの根の国堅州に舞戻っていた。  横田町には稲田姫を祀った稲田神社があり須賀にも須賀神社があって二人が祀られていた。しかしこの神社は何れも式内社にはなってなかった。 スサノオ命を不比等は神武天皇より179万2400年昔の偶像にしておきたかった。  スサノオ命を偶像の牛頭天王にしたり、蘇民将来の伝承に出て来る武塔神に擬したのである。不比等には実在人物は困るのだ。 スソノオ命はは亡命する時沢山の宮人を連れて来た。この人達はスサノオ命を祀った筈で氏子である。スサノオ命はもともとは漢族に追われて渡来した。このあとに元莵、真番等の漢の植民地が出来たので漢族は宿敵であった。この様な複雑な事情があった。 出雲でも中海と宍道湖の周辺だけが藤原の威力圏で仁多郡は伯耆と隣り合せで天皇勢力圏に属していて式内社は2社に過ぎなかった。
式内社と祭神
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
 
伯耆の国をクリックしますと、式内社は、僅か 6社です。 式内社が有る集落は、藤原氏の支配下にあった集落ではないかと推察しています。
出雲は、日本では、3番目に式内社が多い国です。支配下にあったというと、聞こえが悪いですが、絹の売買の権利が与えられていましたから、最も、豊かになった集落ではないかと考えています。
その根拠はと云いますと、判りません。
仁多郡は出雲ですが、天皇勢力の強い伯耆の隣りの集落ですから、し式内社は少なくて、二社だと書いてあります。

出雲をクリックして、仁多郡にどのような式内社が有るかを確認してください。


大呂にあった最新製鉄所   76  -108- [真説 建国史]

足名椎と妻の手名椎は製鉄所であることなど分る筈がないから目はほうずきの様に赤く、身にはこけや杉や檜が生えていると形容した。これが八つの谷と八つの尾根を度って腹は血の様にただれていると述べた。  これこそ登窯の煙道が尾根を登って一緒になっていた形容である。たたら式の製鉄だと絶えずふいごを人が動かす必要がある。しかし山の尾根に煙道をはわせば煙突効果で自然通風でよいから人手が不要だ。 ここの製鉄職人も中山王国から渡来したと考えてよい。従って独身でやって来たから妻は略奪する外なかっただろう。 天の岩屋戸事件では天津麻羅を探し出してヒルゼンの南の鉄山の鉄を鍛造して鏡を作った。この天津麻羅は恐らくここで鍛造していたのではないだろうか。 蛇の尾から草薙剣が出たので天照大御神に奉ったとあるのは、これだと神話になる。これは偽証で景行天皇の御世に倭建命が出雲建から取上げた剣こそは草薙剣だったと考えたい。この詳細は後に譲ることにしたい。



-----私のコメント----
こんな古事記の読み方があるのだなと思いました。

「ここの製鉄職人も中山王国から渡来したと考えてよい」
ここの中山王国
はお解りになりましたか。 北京の近くで見つかった。中山王国です。 この人たちは、日本から行った人達だと田村氏は考えておられます。 この王国が見つかって、直ぐに、日本で、【中山王国文物展】が、行われました。 展示された物の写真が豊富に収められたています。 この中にある『黒陶』は日本から伝えられたものではないかと思われます。 この冊子は、10000円だしても値打ちがあると思うのですが、古書店から安く手に入ります。 
 図書館でみられても良いと思います。

上に書かれた製鉄所である山は、現在でもあるはずです。 大呂の近くにお住まいの方は、その山の写真を撮って、送ってください。


日野川と斐伊川の二つの川が登場   75  -107- [真説 建国史]

スサノオ命はヒルゼン高天原から罪人として追放された。このあと米子を流れる日野川を遡って舟通山の峠を越えて鳥髪(鳥上)に降って行った。 ここの仁多軍横田町大呂で最新の自然痛風の製鉄所の職人を退治し、この血が斐伊川を赤く染めた。毎年一人づつ略奪結婚で奪われて残った最後の一人がスサノオ命に助けられて妃になった。これが八岐の大蛇の神話の大すじである。 先づ原文では古事記も日本書紀もスサノオ命が遡って行った川は日野川と書かれていたのに今までの解説書は斐伊川と間違っていた。 古事記の原文には八俣の遠呂智と書かれ、八岐の大蛇と書いた箇所も見当らなかった。八俣とは道が八方に通じた仁多郡横田町のことで、遠呂とは大呂のことである。ここに現在でも日本刀の玉はがねを砂鉄から作る日立金属がある。  この古事記の文章は明らかに脱落した部分と神話的要素があり、これこそ藤原朝臣が書き改めたものだ。


-----私のコメント----
この文章には、コメントは必要ありません。
[八俣とは道が八方に通じた仁多郡横田町のこと] は、毎日のように、地図を眺めている者しか考え付かないでしょう。 それに加えることに、田村氏は、この交差点を通られたのだと思いました。

高句麗人が包囲した平安京   74  -106- [真説 建国史]

古事記ではわざわざ近江の日吉神社と嵐山の松尾神社の祭神は、スサノオ命の孫でしかも鳴鏑矢を用いる軍隊だとかいている。この近くの太秦は文字が示す様に秦の始皇帝が先祖だと称する人が住んでいた。古事記は壬申の乱の時に天武天皇が内命され、この時の軍隊は大山咋命を祀った神社の氏子だったことを書き残したのである。 京の賀茂大社の祭神の別雷神はスサノオ命の曽孫の味鉏高彦根命が名前を改めたのだとこれも古事記が注意している。 大山咋命も別雷神も日本書紀には全く書かれていない。不比等はこの二人がスサノオ命の子孫であることは知られたくなかった。そしてスサノオ命の時代は神武天皇より百七十九万年昔の話だと、この二人をスサノオ命とは無縁の人物に仕立てた。 八坂神社はスサノオを祀り、氏子は高句麗人で祇園に住んでいた。伏見稲荷の祭神はスサノオ命の子の宇迦の御魂である。平安京にはこの外に鎌足の先祖を祀った吉田神社と大原野神社があり、天皇の敵一色である。


---私のコメント---タイトルの[高句麗人が包囲した平安京]は、天皇が造った平安京のうち、大極殿などがある所は、当然、天皇やその一族の人が住んでいたことになります。しかし、高句麗人によって包囲されていたと云うタイトルです。

八坂神社、伏見稲荷、吉田神社、大原野神社の全ては、天皇の敵だったと書いてあることになります。
私は別の言葉(延喜式内社)に焦点をあてて、調べましたら、多くの式内社に囲まれていることが分りました。

天皇家にとって、一番きらびやかであり、長く続いた平安時代は、実際には、藤原氏の一番栄えた時代であったと考えていました。

田村誠一氏は、ズバリ、天皇の敵だったと書いて居られます。

せめて、ここに書いてある4つの神社だけでも、精しく調べられますと、いろいろ新しい事が分ると思います。

新しい日本の歴史so で検索して戴きますと、「新しい日本の歴史」ガヒットします。
この左下に検索の乱が有りますから、此処に、「式内社に囲まれた」で検索しますと、ヒットします。
「式内社二囲まれた平安京100」と有りますから、平安京に関して、100回透いたことになります。
その後ろに松尾大社(28)と有りますから、松尾大社だけで、28回書いたことになります。
松尾大社だけでも、周りの神社を調べませんと、松尾大社のことは分りませんので、何度も出かけました。
田村誠一氏は、田村氏は、私以上に現地を訪問して調べておられますから、ここに書かれた事柄は、どこから導かれた事かは、私はには分りません。

「神武天皇より百七十九万年昔の話」は始めて見ました。

それ以上にすごいのは、「高句麗人が包囲した平安京」でしょう。高句麗人と分るところがスゴイですね。

事蹟が書かれていない人物程英君   73  -104- [真説 建国史]

日本書紀では天照大御神を天の石屋戸事件で抹殺してしまった。しかし丹波に伊勢大神宮があり、崇神天皇の妹が奉齋していた。
 日本書紀では大国主神は国譲りで入水自殺していて、出雲大社のことは「一書に曰く」にも書かれてなかった。「一書に曰く」は不比等に取って都合の悪い時は載せてない証拠である。しかし同じ日本書紀で崇神紀60年には突然出雲大神宮が登場している。
孝霊天皇と二将軍の吉備征伐は完全に抹殺してある。備前で活躍したこの天皇の王女の夜麻登登母母曽姫は自殺に見せかけて殺している。丹波の魏の将軍難升米(日本名玖賀耳之御笠)を殺した日下坐王は抹殺して、謎の人物丹波道主命を登場させている。
倭建命は不比等の同俗を征伐したので、最も好ましくない人物だから熊襲征伐をカットしている。更に天皇家の家督を相続しているのに天皇には加えてなかった。
雄略天皇が河内の志紀宮を焼かせた記述も日本書紀には載せてない。不比等の編集は首尾が一貫して謎を解くことはかえって容易だ。



---私のコメント--
 田村誠一氏は、
第七話『 崇神天皇の妹だった卑弥呼 』1981/07/03 を出版されています。
 その一部を 次の所に転載しましたから、ご覧ください。
 (1)~(4)、其他の転載しました。

崇神天皇の妹だった卑弥呼(1) 
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/04/1-576f.html

 最近、転載したものに、「真説 建国史」からの抜粋を記しています。
崇神天皇の妹だった卑弥呼   13  -45-
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-09-23
卑弥呼隠匿が目的だった日本書紀   11  -43-
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-09-18


天照大御神を抹殺した不比等   72  -104- [真説 建国史]

日本書紀で天の石屋戸事件の前後の記述を眺めて見たい。不比等の主張が本文にあり「一書に曰く」は採用出来ないと考えるべきだ。  先づ本文ではイザナギ命は天照大神(格下げに注意)に高天原を治めよと命じている。 しかしスサノオ命には「天下を治めよ」と命令したことになっている。 しかしスサノオ命がウケヒのカケに勝ったあと暴力をふるった。しかしこの時天照大神が機織の小屋におられるのを見とどけた上で、ぶちの馬を飛込ませた。このために天照大神は驚いて「おさ」で怪我をして発病したので天の石屋戸に籠ったと書かれている。 これ以後天照大神は日本書紀に登場しておらない。古事記では天照大御神がニニギ命に高千穂に降って久邇を治める様に命令している。しかし日本書紀では高皇産靈尊の命令で、この神の皇孫ニニギ命が天降ったと書かれている。不比等は天の石屋戸事件で天照大御神を発病させて抹殺してしまった。 古事記と日本書紀の記述はこの様に全く異なっているのに、記紀の単語が使われている。



---私のコメント---
①日本書紀には、他の一書と書かれた部分が有ります。多い所では、10を超える他の一書が書かれています。3つあれば、3つとも関連性の無い事が書いてあります。と云うことは、他の一書が書いてあれば、日本書紀の外に、本が有ったことになります。
 日本書紀の作者は、他の一書を参考にしてくださいと云うことでしょう。
参考にすれば、日本の歴史が精しくなるのかといいますと、反対にややこしい歴史書になっています。

田村氏の解釈は、
「不比等の主張が本文にあり」
が、正しいように思います。

②天照大神(格下げに注意)-----この部分の意味はお分かりですか。

天の石屋戸事件   71  -103- [真説 建国史]

スサノオ命は天照大御神の田の畔を壊し、田への水路の溝を埋めた。この時ヒルゼンに水田があった証拠である。又神衣を織る服屋の屋根を壊して、この穴から、ぶちがある馬の皮をはいで飛込ませた。このために織姫が「ヒ」でほとを突かれて死んだ。この時の織物は絹でよかった。 天照大御神は恐ろしくなって天の石屋戸の洞窟に逃込んだ。現在は茅部神社と呼ばれる天の磐座大明神の奥の院にあたっている。ここに天照大御神が祀られている。ここの前に天の香山から鹿をつかまえて来て鍛えて鏡を作り、太陽を反射させて洞窟内を照らす準備を行った。いろいろの装飾が調った所でトリップショウが行われ、神々が大笑いしたので、天照大御神が石の戸を開いてのぞかれた。このすきに天の手力雄命が天照大御神の手を取って救出された。 天の香山は城山と呼ばれ、是と全く同じ山容の山が大和の天の香久山で、高天神社まであって、藤原は偽証を企てている。



---私のコメント---始めから4行目迄は、此の通りですね。
 スサノオ命と天照大御神がいつ頃の人かは、定かではありませんが、神武天皇よりは、ずっと前の人は確かです。
神武天皇が柏原に宮を定めて、即位されたのが、西暦元年1月1日ですから・・・。

このお話を次の所に書いていますので、読んで下さい。

日本書記を元に建国記念日を制定
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1312.html

「霧の中で吹いた口笛のカケ」  その2 [真説 建国史]

 今日は、次の話題の「天の石屋事件」を書くつもりでしたが、10日~11日に大津京のことを調べる為に、大津市に行ってきました。

その為に、こちらの準備が出来ていませんので、口笛のカケのことを書いてみます。

「霧の中で吹いた口笛のカケ」の事は、自分で、みなさんに知って頂こうと思いながら、書いたのですが、解らない点があるのです。

どこが解らないかと云いますと、太安万侶は、この序文を書く事によって、読んだ人に、どのような事を伝えたかったのかを知ることに重点を置いて考えました。

古事記には、神話が書いてあると考えておられる方は、日本の歴史を取り違えておられると考えています。

何故かといいますと、この部分は、天武天皇が、このままでは、天皇家は滅びてしまうと喋られたときの叫びを序文にハッキリと書いていると思います。

太安万侶の決意は、古事記の序文に書く事によって、始めに宣言したのだと思っています。

この部分をご自分で翻訳してください。もし、翻訳出来ない人は、専門家が翻訳された本を読んで下さい。
私の勉強不足かも知れませんが、読んだ本で、一番、真正面から取り組まれた本と思える本が有ります。

中西 進著 『古事記を読む』全四冊です。
この本は、阿保みたいに、古事記、古事記と云っている私の為に、大学時代の友人が、買って送ってくれたものです。一冊が、300ページ近くある本ですから、四冊で1200ページになるものです。

折角、高価な本を買って送って頂きましたが、一冊目の途中まで読んだだけです。
どうしてかと云いますと、序文の部分を二回読みましたが、意味が解らないのです。本当は、四冊読めば、序文の意味が解ると思ったのですが、この部分が解らなかったのでは、古事記全体の意味も分らないだろうと判断して、そのままにしています。

そこで、他の人はどの様に翻訳されているかと思って、いろいろ探しましたが、一冊もありませんでした。辛うじて、田村誠一氏が、翻訳されていただけです。

この序文は、太安万侶が書いたものではなくて、他の人が書いたものは、確かなので、古事記のその後の本文は、古事記は、日本の歴史を混乱させる為に、書かれた偽書であることを書いて居られる方が有りました。

書物の価値を発行された本のページ数で判断するのは間違っていますが、序文を翻訳された方がおられないと云うことは、古事記のことを解って居られる方が、ゼロと考えていいのではと思います。

問題の「霧の中で吹いた口笛のカケ」の部分は、大野安麻呂が、読者に伝えるために書いた中でも、力を込めて書いたのではないでしょうか。

これを理解出来る人は、ヒルゼン高原に住んで居られて、霧とはどのようなものであるかを知っている方のみ判るのではと思っています。

さて、話題は、始めの私が大津京をもとめて、歩いてきた古都の事を書きます。

一日目は、前回おとずれました百穴古墳をもう一度行って、倍の古墳を見ることに集中しました。 そして、その先にある祟福寺跡に行ってきました。このことは、まだ、頭の整理がついていませんが、お寺は、随分高い所にありました。一つ目の遺跡に到達する前に、しんどくて、最後の20段程の階段を前にして、一歩も歩けなくなりました。
しばらく、休んで頑張って、上った所、大きな柱跡がある遺蹟に到達しました。遺跡を見るより先に、腰を降ろして、回復を待ちました。
遺跡は、三つの尾根に分散してありました。

下山して、前回訪問時に、どうしても三つから無かった桐畑遺蹟に再度、挑戦です。 しかし、歩きましたが、見付かりませんでした。
諦めかけていました所、煙が見えましたので、近づきましたら、農作業されている方がおられ、お話を聞きましたら、その場所から50メートル程の所に、、桐畑古墳が有りました。この桐畑は、地名許思っていました所、その方のお名前が、遺蹟に使われたとお話をお聞きしました。 遺跡の名前に、個人のお名前が付けられた例は、余りないそうです。

2日目は、1日目の済ませたために、予定のコースが少なかったので、予定に無かった近江神宮に行きました。 
この神社は、新しい神社ですので、豪華な割には、わたしには、あまり、興味がなかったのですが、行く道中、地名の表示が目に入ります。 「錦織三丁目」です。三丁目は興味ないのですが、 「錦織二丁目」に大津宮の遺跡が見つかっています。
随分前に、その報告が、新聞に載った時に、見に行きました。 難儀して見付けた所は、発掘が終わり、埋め戻されていました。 一軒分の民家の跡が有っただけでした。

 その後、発掘が進み、整備されて公開されていると云うので、行きたかったところです。
「錦織三丁目」の隣りが二丁目ですから、琵琶湖の方向、東に向かって歩きました。大きな滋賀県の地図しかもっていませんでしたので、大津京は、琵琶湖と一帯になってあった筈だと・・・・。ずっと、続く坂道をどんどん歩きましたが、旧の161号線まで行きましたが、「錦織二丁目」は在りません。

 スマホを2台もって居られるお若い三人家族にお会いしましたが、ご存じありませんでしたが、検索して下さいまして、「神宮前」の駅の近くに二丁目があることを見つけて貰いました。

直ぐに、「錦織二丁目」は見付かりましたが、広い町で、大変でした。 京阪電車の駅の西ですが、京阪電車の線路が邪魔をして居り、結局二丁目全町を歩く事によって、遺蹟に辿りつきました。

この歩きまわるのが良かったのですね。 近江神宮から湖岸まで続く町は、延々と続く坂の中にありました。
遺蹟のある町名は、書いてはいけないのか、ネットでは見ることが出来ませんでしたが、自動車で行けば、狭い道の住宅地の中にありますから、電車で「神宮前」で下車されて、北に2分も歩かれますと、8番目の遺跡が有りました。そこから、北に向かって、遺蹟が密集してありました。

タイトルの「霧の中で吹いた口笛のカケ」に戻ります。
古事記に登場する所は、いくら本を読んでも理解出来ませんが、このように、現地を歩き廻り、その中に、自分を置きますと、歴史を発見できるのではと思いました。

霧の中で吹いた口笛のカケ   70  -102- [真説 建国史]

イザナギ命が高天原から、近江の多賀に移られると恐ろしい大王がおらなくなったので、スサノオ命は武装をして高天原に登って来た。 そして天照大御神を奇襲したが天照大御神も事前に察知して武装されたため失敗した。 スサノオ命は根の国の堅州に行くので挨拶に来たのだとウソをついた。何れにしても根の国堅州に行くことはイザナギ命の命令違犯である。ウソか否かをウケヒと称するカケで勝負することにした。 二人は旭川の源流の塩釜と称する泉である天の真名井でみそぎをしてから、霧の中で口笛で人を呼び寄せた。この時スサノオ命の持物である十握剣に、女性が三人集って来たので、スサノオ命はカケに勝った。 本来はこのカケに勝ったのであれば、速かに高天原を立ち去るべきなのに、スサノオ命は乱暴を重ねた。 これこそスサノオ命はあくまで高天原を奪おうとした証拠である。現在住んでいる根の国堅州よりは高天原の方が立地条件が優れていたからだ。多くの大王が高天原に登って来たのは都として理想的な環境だったためだ。


---私のコメント---
「誓約」の場面は、古事記の読み始めの頃は、意味が良く解りませんでした。
その内に、田村誠一氏の翻訳に接し、なるほどと思っていましたが、
「霧の中で吹いた口笛のカケ」には納得できませんでした。

「誓約」と書いて「うけい」と読む事ができる人は、そう多くないでしょう。

 まともに、「誓約」の意味を探ってみることにします。

デジタル大辞泉の解説    せい‐やく【誓約】
[名](スル)固く誓うこと。また、その誓い。「口外しないと―する」「―書」

----この解説では、古事記に当てはまりません。

「うけい」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%91%E3%81%84
うけい(うけひ)は、古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓などと書く。
ある事柄(例えば「スサノオに邪心があるかどうか」)について、『そうならばこうなる、そうでないならば、こうなる』とあらかじめ宣言を行い、そのどちらが起こるかによって、吉凶、正邪、成否などを判断する。

---この意味ですと、誓約をすることによって、「正邪」を決めたことになります。
ただ、その方法が納得出来ません。どうして、持ちモノを交換しなければならなかったかです。

アマテラスとスサノオの誓約 ―――ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%AA%93%E7%B4%84

これが抜群だと思います。何所が抜群かと云いますと、古事記だけではなくて、日本書紀に書いてあることを全部書きだして居られます。
他の一書に書いてあったことを全て抽出されました。
抜群だと書きましたが、訳が分らなくなりました。


 ④誓約(うけい)をの本質とはなにか
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=291357
---この文章の作者は、スサノオが、高天原を攻撃した時の、天照大神の対処方の根本が、セックスとの意味らしい。ということは、スサノオは男で、アマテラスは女性と云うことでしょうか。 多くの方は、女性とされていますが、私は男性に思えるのです。(日本書紀では、姉だと書いてありますから、女性ですが・・・)

⑤ 誓約(うけい)http://jiyodan.exblog.jp/7956483/
この方の考え方は、一面では正しいですね。
誓約をしたことによって、次の神が生れたのですから。

• 多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。
• 市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。中津宮に祀られる。
• 多岐都比売命 - 辺津宮に祀られる。
次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた[4]。

• 左のみづらに巻いている玉から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
• 右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命
• かづらに巻いている玉から天津日子根命
• 左手に巻いている玉から活津日子根命
• 右手に巻いている玉から熊野久須毘命

しかし、本当にスサノオとアマテラスはセックスをすることによって、争いを避けたのでしょうか。

 古事記には、次のように書いてあります。
「故ここに各天の安の河を中に置きて誓ふ時に、天照大御神、建速須佐の佩ける十拳剣を乞ひ度して・・・・」

大きな河を挟んでセックスどころでないでしょう。

ここで、素晴らしいのは、
『日本書紀』第六段の本文では、古事記と同様に天照大神が素戔嗚尊(スサノヲ)を待ち構えるが、天の安河を挟んではいない。  ---です。


何が素晴らしいのかと云いますと、日本書紀は古事記を読んで、それを参考にしたと考えています。
古事記に書かれている「誓約」は意味が解からなかったのでしょう。

本文に書くときに、「天の安河を挟んではいない」ことに書きました。それでは、やや、おかしい所もありますので、他の一書を三つも書いたことになります

天照大神と素戔嗚尊は、神さんです。 神さんがセックスをすれば、神が生れるのでしょうか。

このように見てきますと、田村氏の翻訳は、なかなかのものです。
高天原がヒルゼン高原であることを知らない人には、理解できないでしょう。

霧が多い所です。天の掛け橋が、オノゴロ島の前に、架かり、その下は、霧で一杯です。 誓約をしても、見えません。 霧の中で口笛で人を呼び寄せた とは、素晴らしい発想です。 太安万侶は、古事記のあちこちに、このような仕掛けを作ったために、日本書紀を作る時に、意味が解からなくて困ったと推察出来ます。

根の国堅州は高麗村唐王   69  -101- [真説 建国史]

スサノオ命はすでに述べた様に遼東半島付近にあった燕からの亡命者だった。この時沢山の宮人をつれて西伯郡に渡来した。伯耆とはもともと母来と書かれ、スサノオ命の母が来たことに由来している。現在の伯耆は呉の太伯の老人を尊敬した意味と考えたい。天照大御神が周の時代の呉の太伯の子孫だと考えられる一つの根拠である。 スサノオ命は一時出雲の須賀に住んでいたがもとの古墳の根の国堅州に戻って、女のスセリ姫と暮らしていた。ここに葦原色許男が訪ねて行って恋仲となった。この非常に特定の人物が高麗村唐王の唐王神社に祀られていた。 しかも由緒までが詳細で古事記と一致した。 根の国とは日野川のデルタ地帯が木の根と共通である。当時ここは独立した島だった。従って陸の部分が根国であるべきだ。堅州とはデルタ地帯でない地形の意味である。唐王神社の由緒と古事記の記述が一致していたことは稗田阿礼がここの古老から伝承を聞きだした証拠である。




---私のコメント---「しかも由緒までが詳細で古事記と一致した」ことが重要視されていますが、これは認めて良いのではと思います。ここまで考えて、由緒を読まれる方はおられないと思います。

なぜ、神社の由緒と古事記が一致したかと云いますと、「稗田阿礼がここの古老から伝承を聞きだした」と記し、これが証拠だと記して居られます。
他に、一致する可能性は、考えられないでしょう。

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