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村社 灘手神社 [日本の歴史]

東伯郡灘手村大字穴沢字中下谷鎮座

 祭神 大日?神、高御産巣日神、素戔嗚神
    大己貴神、天稚比古神

 由緒 創立年代不詳

 この項目、以前に掲載して、ここまでしか
 表示できませんでした。

 やはり、上手くいきません。

 三行だけ、追加できました。
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大江神社 [日本の歴史]

東伯郡倉吉町大字仲之町字打吹山 鎮座

祭神 大江磐代君

由緒 当社の御祭神は倉吉町の御誕生にして光挌天皇
   の御生母たり、御霊代は閑宮院載仁親王殿下の
   御奉納なり、明治十三年十二月九日郷社賀茂神
   社に合祀せられしを、明治四十五年五月十四日
   神社創設を許可せられ、現社地を撰びて社殿を
   造営、大正二年四月十四日奉還す。

 例祭日   四月十四日
  建造物   本殿、幣殿、拝殿
  境内坪数  三百十三坪
  崇敬者戸数 二千五百七十五戸
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Ⅰ 古事記とは どのようなものか [日本の歴史]

 古事記は、第40代天武天皇の命令により、太安万侶が編集し、成立の経緯を序文にしるし、712年(和銅5年)1月28日に、第43代元明天皇に提出したとあります。
不思議なことに、古事記のことは、古事記の序文に書かれている以外に、8年後(720年)に完成した、国家の正史である『日本書紀』(720年)にも記録なく、同じ頃、存在した国家の正史である『続日本紀』にも記録はありません。
 本の形は、序文にあたるものと、三巻から出来ています。書かれていることは、日本の成り立ちから天皇を中心とした歴史が書かれていますが、完成後、100年近く世の中に現れることはありませんでした。
あるときは、後世の人が書いたという偽物説が出たり、最近では、日本書紀のほうが先に書かれたという説が主流を占めるようになるなどし、その価値は、日本書紀より落ちていくように思えます。
古事記は、日本書紀を参考にして作られたといった文章も目にとまります。
「古事記」 読んで字のごとく、「古い事を記した本」という捉え方がされています。
あまり難いことを言わないで、書いてみます。

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新しい古事記の読み方 [日本の歴史]

[はじめに]
 全くの素人の私が、タイトルのようなことを書くつもりに
なりました。その動機は、今までに読んだ本などと読み方が
大分違うからです。あまり、違いますと、誰からも相手にさ
れません。そこで、少しでも多くの人に知って頂き、そう試
みることによって、私の頭の中で、バラバラになっている古
事記を一ツのものにしようと思っています。
 古事記を読む時に書かれていることの意味を追求します。
その方法はいろいろですが、方法によって、解釈の仕方変わっ
てきます。何分、古事記と日本書記は、もっとも古い書物であ
り、ここに書かれていることが、日本の歴史を知るために役立
っています。
 そこで、私の方法ですが、私は逆に日本の歴史の中の古事記
という考えで読み進めていこうと思っています。

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郷社 國阪神社 [日本の歴史]

東伯郡中北條村大字國阪字宮ノ前 鎮座

祭神 少彦名神

由緒 創立年代不詳、仁明天皇承和四年二月従五位下を授けられ、
(続日本後記) 文徳天皇齊衡三年八月正五位上に敍さる、延喜の
制小社に列す、白河天皇承歴礫四年六月御卜に國阪神の祭を穢せ
る崇あるを以て社司に中祓を科せらる(朝野群載) 古来四宮大明
神と称し、武門武将の崇敬篤く、大永年間茶臼山の城主増田玄蕃
当社再興の挙あり、明治維新の際國阪神社とあらためられ。、
郷社に列す、明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せら
る、当社の御祭神に就て大日本史に土人の説として大己貴命を祀
ると云ひ日本地理志科も又大国主命を祀る乃ち其の裔の奉祀する
所と記す、元禄七年著の柏陽六社みちの記には是はいかなる御神
ぞといふに書て賜はる少名彦尊にておはしましぬとなん記せり。
 当社前方に面積約二反歩の神池あり、一面に??河骨を生ず、
往昔地方に疫病流行し或は難病人ある時当社に祈願し此の水草を
刈り取り毎年四月八日薬草祭典を行ひ参拝者に頒つ。

 例祭日  十月十五日

 建造物  本殿、幣殿、拝殿、参籠所、随神門

 境内坪数 一千六十八坪

 氏子戸数 百五十三戸
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難手神社 [日本の歴史]

村社 難手神社東伯郡難手村大字穴沢字中下谷 鎮座

由緒 創立年代不詳


マイカテゴリを [日本の歴史]から、[日本史]に変更しましたが、投稿できません。由緒以下が表示されません。

鎮座地と由緒の間に、祭神の記入欄がありますが、表示されません。由緒は、[創立年代不詳] のみで、以下最後まで表示できません。


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村社 福積神社 [日本の歴史]

東伯郡高城村大字福積字宮山 鎮座

 祭神   事代主神

 由緒   創立年月詳らかならず、

祭神   事代主神
以下の資料、 表示が不能です。


 ということは、今後、利用不可能になる恐れがあります。

 ということは、記事の投稿が出来ないことになります。 

追加・ 由緒は一部しか、掲載できませんでしたが、残りの
    記事を追加してみます。

由緒   創立年月詳らかならず、
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村社 服部神社 [日本の歴史]

東伯郡高城村大字服部字坂ノ上鎮座

 祭神 大国主神、保食神

 由緒 創立勧請年月不詳、旧桑原大明神と称す、
明治五年服部神社と改称し、村社に列せ
    られる、大正十一年九月六日神饌幣帛料
    供進神社に 指定せらる。

  例祭日  五月九日
  
  建造物  本殿、拝殿、随神門、参籠所

  境内坪数 九百二十九坪

  氏子戸数 六十五戸
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村社 楯縫神社 [日本の歴史]

東伯郡高城村大字上福田字宮ノ平ル鎮座

 祭神 底津少童命、中津少童命、上津少童命、
    瓊々杵尊、別雷神、保食神、国狭槌尊
    不詳一神、事代主神
 
 由緒 創立年月不詳なれども元禄六年癸酉卯月に再建せること
社記に見ゆ、

 この後の記事が、投稿できません。

 この行が投稿できているのですから、一行だけ、印字ができてもいいのですが、出来ません。

 どうやら、この[新しい日本の歴史] は、あきらめないとだめかもしれません。

  
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郷社 倭文神社 [日本の歴史]

東伯郡北谷村大字志津字宮ノ前鎮座

祭神  経津主神、武葉槌神、下照媛紙、伊弉諾命
    伊弉冉命 誉田別命、国狭槌尊

由緒  創立年代不詳、文徳天皇斉衡三年八月従五位
    上を授けられ、延喜の制小社に列す、朱雀天
    皇天慶三年九月従三位倭文神に正三位を授け
    ららる(本郡には同神ありて神階のこと何れの
    神社をを指せるにや詳らかならず) 鎮座地志
    津は社号の倭文と同一なり、随って祭神倭文
    神武葉槌命を祀れるより起因せること明かなり
    後世に至り志津大明神とも三ノ宮志津大明神と
    も三ノ宮志津大明神とも称したり、往古より
    武門武将の崇敬厚く多くの社領を有したり 八
    町四方の御免地 (神楽田、御供田、籠田王殿、
    カワケ田、行田、使者田、神田、神主屋敷、灯
    明田、山田、橘、王代、祭所) 今尚字に残れ
    り、嘉慶二年国主山名時氏社殿を建立し、社領
    十八町歩寄進あり、其の後吉川駿河守元春社領
    を再興す、天正二年南條豊後守宗勝の祈願所と
    して社号を建立、社領を寄進す、慶長中中村伯
    耆守社領を没収す、寛永五年松平勝五郎内高木
    斎宮建立天和三年松平相模守光仲金百疋直納、
    御公儀より玄米十五石竹百束人夫五十人被遺本
    殿建立、正徳五年地頭高木長兵衛社殿建立爾後
    歴世太守の祈願所として毎年神札を直納せり、
    寛永元年には官許を得て豪族の拝殿建立あり、
    享保十六年伯耆一國の?化を以て各大庄屋宗旨
    庄屋は普く郡中の信仰に訴へ社殿造営さる、宝
    暦二年三月にも同じく伯耆一国の勧化に依りて
    社殿を造営す、明治四年郷社に列す、明治四十
    年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せられる、
    大正二年十二月北谷村大字福本字峯鎮座村社福
    本神社(祭神誉田別命)同村大字尾田字中峯鎮座
    村社尾田神社(祭神伊弉諾命)同村大字福本字峯
    鎮座村社新宮神社(祭神伊弉冉命)同村大字福富
    字クラヤ鎮座村社福富神社(祭神國狭槌尊)を合
    併す。

例祭日  四月十九日

建造物  本殿、幣殿、拝殿、中門、廊下、神饌所、
     社務所、随神門、神輿庫、参籠所

境内坪数 一千百二十坪

氏子戸数 百六十一


私からの感想 
①田の字の付く地名が多いですね。
② 境坪数内と氏子戸数の数字が大きいです。合併する
 時は、大揉めに揉めたでしょうね。
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