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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(134) 壬申の乱(85) [古墳から探る歴史]

前回の林 博通著 『大津京』に書かれた考察はいかがでしたか。

(c)これらの扇状地はいずれも東西に舌状を呈し、しかも高低差が大きく、宮城としては左右対称の建物配置のための比較的まとまった平坦地が要求されるが、いずれもその適地とはいえない。しかし、この中で錦織地域は比較的高低差の少ない平坦地を求めることができる。

この部分は、納得出来ましたか。
「これらの扇状地はいずれも東西に舌状を呈し、しかも高低差が大きく、」
 この部分は、扇状地と云うものが、どのようなものかを知っている人は、想像は出来ますが、扇状地は実際には見た人はおられないと思います。

 前回の記事は、早く見られた方は、私は一杯、漢字の変換を間違って、そのまま、掲載しましたので、読まれるのが大変とだったと思います。
 そこで、[林 博通氏『大津京』を購入してください]と記しました。

実は、(c)の部分の下に、表8と 図53 を挿入されています。之をスキャンして、掲載つるつもりでしたが、どうしても、出来ませんでしたので、気になっていましたので、
本日のお詫びの文章となりました。

表の数字の説明を文章にするのは、難しいですが、試みてみます。

平安京は無かったのに、その大津京の朱雀大路の位置を決定するのは、意味がないのですが、当時は、大津京は、場所は分っていないが、麓から湖岸まで、ほぼ、1000m。前回の(a)の部分の事から、麓から500mの範囲に大津京があるという判断の歴史家が多かったのでしょう。 その部分の標高を測定して居られます。

    西500mの地点        朱雀大路      東500mの地点
滋賀里 標高149m    48       101m         87m

南滋賀 標高128m            98m         87m

錦 織 標高10m     14m      96m         89m

本の表では、各地域の標高差が、左の数値から右の数値を引き算して記入されています。
錦織の西500mの標高は10mと印字されていますが、14+96=110 110mのミスだと思われます。 他の空白の部分を計算してください。

図53は 滋賀里・南滋賀・錦織の傾斜比較図です。 これも図示されますと、錦 織地域以外での大津京の建設は 無理であることは、 一目瞭然です。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(133) 壬申の乱(84) [古墳から探る歴史]

林 博通著 『大津京』 86ページ 大津京の実態  1.近年の発掘調査を紹介します。
 昭和49年末、錦織2丁目字御所之内での大津宮建物跡の発見以来、大津北郊の錦織、・南滋賀・滋賀里・穴太の地域では住宅の新増築や宅地造成などにともない数多くの調査を実施してきた。
 この一連の調査で得られたいくつかの知見を要約すると次のごとくである。

(a)大津宮時代頃の大津北郊における琵琶湖の打線は、多少の出入りはあるものの、現在より600~700m前後西の陸地側にあったとみられる。当時の平地部分は現在の半分近い面積で、きわめて狭長な地勢であったと想定される。

(b) 錦織、・南滋賀・滋賀里・穴太の古くからの人々の住んだ地域は扇状地で、それぞれ独立した高燥地となっている。そして、その間は谷筋や低湿地で、建物は扇状地にしか建築出来なかったとみられる。

(c)これらの扇状地ははいずれも東西に長い舌状を呈し、しかも高低差が大きく、宮城としては左右対称の建物配置のための比較的まとまった平坦地が要求されるが、いずれもその適地とはいえない。しかし、この中で錦織地域は比較的高低差の少ない平坦地を求めることができる。

(d)穴太地域では扇状地の大半、特にその南緩傾斜面は後述するように穴太廃寺でしめられている。また、滋賀里地域では、小字蟻之内や太古塚周辺は住宅が密集しているが、昭和初年頃はここに宮が営まれていたとすれば、その造営時点ですでに削平されているはずの横穴式石室墳が多数確認され、最近でも多くの横穴式石室墳が民家の下などから検出されている。南滋賀地域でも後述のごとく高燥な西半分には大津宮時代の南滋賀廃寺が占拠している。
 こうした事実はこれらの地での大津宮の存在を否定する資料となる。

(e)これまでの調査で大津宮に関する建物跡の検出されたのは錦織地域に限られ、方位を同一にする南北の建物や門、廻廊、塀、倉、雨落溝の治世からみて建物設置可能範囲はさらに広がる

こうした調査結果から、大津京の宮は

錦織地域に営まれたと判断され、地勢からみて宮の規模は比較的小規模で、ほかの諸機関や肝心の宅地などは南滋賀や滋賀里、穴太等の扇状地に分散的に配置されたのではないか想定される。それでは、錦織地域において検出された大津宮の建物跡について、やや詳しく見てみよう。
 以上 林 博通著 『大津京』 86ページから転載しました。

こんなに、長く、コピーするのは、法律違反になるでしょうね。

唯、この五項目の事は、大津京に対する考察としては、正確であるように思います。
書物のタイトルは、[大津京]です。なのに、大津京はなかったという流れを書き、

(e)が最大の指摘です。

 この本は、大津宮が存在したという証拠として、8ヶ所の遺跡が残っている場所を、
前々回に地図上に掲載しておきました。

 この大津宮の証拠となる遺蹟は、  これまでの調査で大津宮に関する建物跡の検出されたのは錦織地域に限られ、方位を同一にする南北の建物や門、廻廊、塀、倉、雨落溝の治世からみて建物設置可能範囲はさらに広がる と断定されました。
 この見解は、林 博通氏の見解ですから、又、覆される可能性はありますが、この後に、
8ヶ所の遺跡の詳細が記されています。
 この部分までの転載は禁じられるでしょうから、この林 博通氏の

考古学ライプラリー  27  大津京  を購入して頂くしかありません。

調べましたら、この書物はなぜか。古書店で500~1000円で購入可能ですから、お求めになって、ご自分で、考察を確認してください。

林 博通氏は、JR湖西線が造られる前に、3.4kmにわたって、発掘調査された時のキャップです。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(132) 壬申の乱(83) [古墳から探る歴史]

 前回、大津市の錦織二丁目一帯で、大津宮の施設と思われる遺蹟が全部で8ヶ所で見付かったことを記しました。
 これらの発掘や、JR湖西線建設に伴って、発掘された事業は、国が厖大なお金をかけて行ったことが判っています。
 全てではありませんが、次の所で見ることが出来ます。
 錦織・南滋賀遺跡発掘調査概要 1
http://sitereports.nabunken.go.jp/2106
8ヶ所では、大津宮のものと思われる遺物が見つかったのですが、弥生時代の土器も見つかっています。
 ということは、滋賀里~南滋賀~錦織の間は、古くから人が住んでいたことになります。

もう一つの証拠は、タイトルに書きました「滋賀県大津市の古墳」です。この地域だけで、確か、1000個を超える古墳が有ります。
 私の場合は、こちらの古墳を歩く事に依って、住んでいた人を調べて、大津京のことを考えることに至りました。

この古墳は、唯の古墳ではありません。
百穴古墳群と呼ばれているものです。山の斜面にありました。その傾斜の強さには、体力の限界を感じながら、歩きまわりました。又、二回にわけて歩きました。

http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/hyakketu%20kofungun.htm

弥生時代の土器の人達と百穴古墳群の主達とどのような関係があるのかは解りませんが、壬申の乱を戦った人達とも関係が有るのではと思っています。

 田村誠一氏は、壬申の乱は、[日唐戦争]だったと言っておられます。

田村誠一氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(131) 壬申の乱(82) [古墳から探る歴史]

ここから此処までが、大津京と云う遺蹟は見付かっていません。
 しかし、錦織二丁目一帯に、大きな建物の門の一部やその門の東に延びる廻廊の一部が見つかりました。
 ここを第1地点検出遺構と呼びます。
 この近くでは、全部で8ヶ所の遺構が見つかっています。

image1.JPG
 
次の所に、その一部の写真や記事を見ることが出来ます。
 大津宮
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm

この地図の真ん中辺りに、第1地点があります。その北に、第7地点、その北に第6地点、第3地点、そのやや西北に第4地点の遺構が発掘されています。

 第1地点のやや、西南に第2地点遺構が見つかっています。

 それぞれの遺構ははなれて発掘が行われましたから、広い範囲に大津宮の建造物跡が見つかったことになります。

それぞれの遺構についての詳細が、林博通著 『大津京』に記されています。
 
ここで注目する記事が書いてあります。
①どの遺構からも焼土や炭・灰などは検出されず、建物の消失を示す痕跡はまったく認められなかった。

②柱の埋め土はいわゆる版築工法で付き方めた状況が縞状の層となって現われていた。いずれも柱は抜き取られているが、2本の柱を一連の抜き取り穴を設けて抜き取るという方法が多く取られている。 柱は円柱で直径30cm前後と推測。  『大津京』89頁


上の資料から、私が考察したこと。
①の事から、壬申の乱の時は、戦は、大津宮には波及しなかったことが判ります。

②のことは、どの様に判断すれば良いのでしょうか。大津の宮を去る時には、住民たちは、前もって、柱を抜き取って、どこかで利用したことになります。

 普通は、いくら大きい柱でも、腐って無くなってしまいます。柱のあった所を、この例のように、注意深く観察しますと、抜き取った跡が判ったと云うのですから、プロは凄いですね。

瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、戦は終わりましたから、其の後、柱を抜き取って運んだ人がいたことになります。
 燃やしたのではなくて、再利用するために抜いたのだしょう。どこへ運んだのでしょうか。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(130) 壬申の乱(81) [古墳から探る歴史]

前回の 湖西縦断を縦断するJR湖西線の建設に伴う発掘調査のお話は如何でしたか。
普通発掘すれば、どのようなものが出土したかが重要です。どのような小さなことも漏らさずに、検討を加えて、新しい発見に繋がるように考えます。
 所が、JR湖西線の建設現場からは、見付からなかったことが重要です。大津京には必ず存在する大きな道路は見付かりませんでした。
 ということは、大津京と云える都市は無かったことになります。

 しかし、発掘された部分は、三・四キロに及ぶとは云え、幅は、10mも無いでしょう。発掘された場所は、書かれた書物からでは良く解りません。
 
本には、次の様な事も書いてあります。
①3.4キロのうち、古墳時代の遺物は、ほとんど、全域にわたって見付かっている。特に語世紀後半以降の遺物が多く、其の時期の須惠器や土師器は、多少の差はあれ、至る所で出土したと記されています。
 祭祀用の石製模造品や須惠器等が相当数、やきものの錘、ヒノキで作った琴柱など。竪穴住居跡、古墳も見付かっています。
 ということは、人が住んでいたと云うことです。

②なにも出土しない所もありました。ここを堀り進めますと、4m下から摩耗した平安時代の遺物がでたこともあったと書かれています。
 ということは、土砂崩れがあって、4m埋まっていた事を表しています。これは、南滋賀から錦織の手前にかけてあったことが書かれています。 
 こんな大崩落のあるような所に、人は住んではいましたが、大津京を造くろうとはしないでしょう。----大津京は無かった証拠にもなります。

③南滋賀から錦織のあたりを歩いて下さい。特に、JR湖西線にそって、歩いてください。
JR湖西線は、 1967年に建設が始まったのですが、作られる時に、出来るだけ早く走らせようとしたことが書いてあります。その為に、踏切が有りません。当時としては、全線高架は珍しかったのではないでしょうか。
 その為に、発掘調査はし易かったのではないかと推理しています。

④地図をご覧ください。 沢山、川北は東から南東に向かって流れています。地図では解り難いですが、近江神宮から、湖岸に向かって立派な道が有りますから、全部歩いて下さい。ついでに、錦織という町を全部歩いて下さい。
 家が一杯建っています。これは、多くの川が溢れない様に工事をされたから、現在は、大丈夫ですが、 ②のことと考え合せますと、三・四キロ以外の所は、70キロ程の距離が有ります。
 比叡山に大雨が降る度に、小さな川は溢れたと想像出来ます。

昔の人だからこそ、このような所に住みはしたでしょうが、都(京)を造ろうとしなかったと思われます。


書物ではなく、ネットに、次の様な大津京の記事を見付けましたので、ご検討下さい。
大津市における歴史的事象について
http://www.mlit.go.jp/singikai/infra/city_history/historic_climate/5/images/shiryou5-1.pdf

近江宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%AE%AE#.E8.BF.91.E6.B1.9F.E4.BA.AC


天智天皇と大津京 史跡と伝承
http://oumijingu.org/publics/index/112/続・志賀の都探訪-幻の都「大津京」を掘る
http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2014/04/post-d417.html


湖西線関係遺跡調査報告書
これは、googleで 検索して、二列目をクリックしてください。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(129) 壬申の乱(80) [古墳から探る歴史]

田辺昭三著 『よみがえる湖都 大津の宮時代を探る』59頁に次の文章が有ります。

 湖西縦断  三度目の挑戦
 大津の宮推定地として有力な、滋賀里、南滋賀、錦織は、いずれも旧滋賀郡内にある。一九六〇年代に入って、此の地の遺跡に対する調査は少しずつ増加していったが、その発掘規模はどれもそれほど大きなものではなかった。
 そうした状況の中で、かねてから計画されていた国鉄湖西線の建設が、本格的にはじまることになり、その工事にさきがけて路線上の遺跡を発掘調査をする話が持ち上がった。
 湖西線関係の遺跡については、はやく一九六七年(昭和四二)に国庫補助をうけて、路線上の分布調査を実施していた。延長七七キロにおよぶこの路線は、ほぼ湖西の平野部を南北に縦断しており、既知未知の多くの遺跡がその計画線上にあることがわかっていた。なかでも、穴太から錦織までおよそ三・四キロにわたる範囲には、大津の宮推定地の有力候補がすべて入っており、また有名な滋賀里縄文遺跡もこの範囲内であった。
 結局、この三・四キロをわたしが主担して掘ることになり、調査委員会と調査団の編成にかかったのは、一九七〇年(昭和四五)の秋のことである。滋賀県文化財保護課、日本鉄道建設公団の担当者と再三協議をかさね、翌年三月から二年にわたる調査をはじめたのである。
 この調査は、もともと対象は大津の宮関係にかぎっていたわけではなかったが、新聞やテレビはいっせいに〝幻の都へ三度めの挑戦〟とか〝幻の都はどこに・・・・〟という大見出しで報道した。
 鉄道路線の範囲を対象とする考古調査は、いわゆる遺蹟の全面発掘蝶さとは違った方法をとらなければならない。幅約一〇メートルの路線上に、わたしたちは一メートル四方を単位とする網目をかぶせるように調査区を設定し、その区割りに従って作業を開始した。
 地形や事前の調査で遺跡であることがところはわかっているところは、許されるかぎり全面に発掘し、その他は二〇メートルの間隔をおいて四メートル四方の試掘坑をあけ、土層の堆積状況などをしらべて古地系を復元するための資料とした。こうして春から夏へ、夏から秋へと、一〇〇人前後の全国各地から参集した学生を中心に、発掘を続けていた。

発掘の様子は、まだまだ続きます。全部読んで頂きませんと、『よみがえる湖都 大津の宮時代を探る』の著者の書かれた事は理解出来ません。

 一言でいえば、一年二ヵ月に及んだ、発掘から分ったことは、溢れる程あるのですが、【大津京】があった証拠は、なに一つ無かったことが記るされています。

【大津京】があった証拠とは、発掘した時に出土した須惠器や土師器ではなかったのです。
南北に三・四キロにわたる鉄道の工事現場では、大津京であれば、存在した筈の碁盤の目の大路が、次々現われる筈でしたが、発見出来なかったと記して居られます。

 大津京は無かったが、それでも、大津宮は有ったのだと書いて居られます。
有ったとしますと、そこでは天智天皇が住んで居られた事になります。
仮に、大津京は無かったが、天智天皇が住まわれて政治をして居られたとしますと、
少なくとも、朝堂院にあたる建物はなくては政治をおこなうことは出来ません。

しかし、大津宮は、錦織二丁目に存在たことは、確定とされています。
これは、大津宮ではなくて、天智天皇が住んでおられた住居跡と云わなければいけないのではないでしょうか。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(128) 壬申の乱(79) [古墳から探る歴史]

昔から、大津京のことを研究された方は大勢居られました。どの研究者も先人がアタックされた方法をご自分の本に紹介して居られます。
 古い所では、田辺昭三氏は、次の様に記しています。

 平安末期に編纂された『日本紀略』という史書の中に『日本後記から引用した「近江国滋賀郡古津は先年の旧都である」という記述がある。近江の宮は、、滋賀郡打ちの古津にあったというのである。この記述が事実を伝えているとすれば、古津という地名をつきとめることによって、宮の所在地をあきらかにすることができるわけである。
 この外にも、『聖徳太子伝略』917年(延暦)成立があります。この中に、聖徳太子大使が大津の宮遷都を予言したくだりがある。「駕を粟津に駐め、左右に明治元年神社改正の際て曰く。吾死してのち五十年、一帝王あり。都を此処に遷し、国を治めること十年」。
 このように、伝承されたものから、大津宮を推理したり、旧滋賀郡内に残された小字から、「御所の内」「宮の内」などから、大津宮のあった位置を発掘したりすることに依って、大津宮の存在を推理して居られます。
 
 しかし、近江京という資料は、次の所に残るのみです。
▼日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
避當有危歟。」或有人奏曰、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」
 上記の所に、「近江京」は確かに、残っているのですが、「自近江京至于倭京」は、後ろにある倭京は、倭という京(みやこ)という意味です。近江という都より 倭(やまというみやこに至る を表していますから、近江京は 京域を表してはいません。
 と云う事で、京域を表す 大津近江京という言葉、資料の上では、一例もない事になります。

 このように見てきますと、大津京は無かったのに、研究者は、研究成果を本の形に発行されました。そして、どの方も、大津宮は、大津市の錦織2丁目に見つけたと発表され、現在で、確定したことになっています。

大津宮 http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm
 このブログの写真は、天智天皇が住まわれた建物があったことに確定されました。
 広さが書いてありませんが、我が家の敷地100坪ぐらいかなと思いました。
 勿論、建物は有りませんが、柱の有った位置と太さを表す柱が模型で作られていました。 天皇はこんな狭い所に住んで居られたのかと思いました。我が家の柱は、10センチもありません。遺蹟の柱の太さは、30センチは有ったでしょうか。
 いくつか写真が添付されていますが、第2地点とか、第9地点の写真が有ります。
 これは、各々が離れた地点に存在します。

 次の所に、第4地点説明図が有ります。  ここに、分れたある地図が表示されています。きっと、これまでに、発掘された所の位置だと思います。
http://ryobo.fromnara.com/palace/p038-4.html

 この地図全体が、大津京なのか、発掘された所では、家が建っていた事は分りますが、発掘されていない所は、発掘すれば、住居が見付かるのでしょうか。
 いえは、飛びとびに建てられていたのかは判りません。

 この辺りが、大津宮は見付かったが、大津京はあったとは言えない点でしょうか。

次回は、紹介しました大津京に関する書物から、疑問点を書いてみます。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(127) 壬申の乱(78) [古墳から探る歴史]

 前回は、大津京の発掘を担当されました林 博通氏が書かれました「さざなみの都 大津京」のはじめの部分を見て頂きました。
 その大津京が有った所は、さざなみの湖岸が見える所にありました。

同じ様に、発掘に参加されました田辺昭三氏も、大津京という言葉は使われませんでしたが、
【よみがえる湖都】 大津の宮時代を探る

とのタイトルを付けて、今は大津京は浮かびあがりませんが、間違いなく出現するであろう大津京を夢見て、書物の形にされました。


あると思われていた大津京は、忘れられるようになったことを、大津歴史博物館の研究紀要5に、次のタイトルで、研究員と思われる松浦 俊和氏が、書いて居られます。

それでも、やはり、大津京に近いものは有ったのだという気持ちは捨てることは出来なかったようで、次のタイトルで論文を書かれました。

 近江大津宮新「京域」論 

しかし、大津京があったとは書く事は出来ませんでした。

  
 このように見てきますと、大津に都が有ったことは、大津の皆さんにとっては、強い願望であったことが判ります。

 しかし、書かれた本を読みますと、無かったことがわかるような気がするのです。


 このお話を次回に書こうと思います。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(126) 壬申の乱(77) [古墳から探る歴史]

書籍 「さざなみの都 大津京」は、大津京の発掘を目指して、発掘作業を続けられた林 博通氏の、中間報告の様な著書だと思いました。

 その「さざなみの都 大津京」の始めの部分を読んで頂きました。

 如何でしたか。

始めの三行は、理科系の人が書く文章ではなくて、文化系の方が書かれるような文章に思いました。
 私も、発掘現場におって、休憩をして眺めると、西の方角には、比良や鈴鹿の連山を眺め、東を眺めれば、蝶のように舞い動く白いヨット、湖岸に打ち寄せるさざ波を目にしただろうなと思いました。

 大津宮が発掘された錦織という所は、山麓から、湖岸まで続く、ながらかな傾斜地にありました。
 しかし、現在の大津宮跡は、100坪程の狭い敷地に、保存されており、周りは、住宅ばかりで、景色はなにも見えません。
 
 しかし、私はこの遺蹟跡まで歩くこと2時間を要して歩きました。出発は、近江神宮から湖岸まで歩き、人にお聞きしながら、大津宮跡に到達しましたので、林 博通氏が発掘をしながら、夢にまで見られた「大津京」はほとんど、歩いたことになりました。

 それ故か、林 博通氏がかかれました次の文章は、重なって、私も想像させてもらったことになりました。

 青く澄みわたった空と満々と碧水をたたえる湖、この青と碧との空間に,それらを裂くかのごとく横たわる比良や鈴鹿の連山、そうして蝶のように舞い動く白いヨット、湖岸に打ち寄せるさざ波にさやさやとそよぐ葦の葉。近江ののどかな春の風情である。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(125) 壬申の乱(76) [古墳から探る歴史]

 大津京があったと云う研究は、大津の研究者以外は、研究はされないだろうと思いこんで、どのような研究があるかを考えました。

 前2回に紹介しました通り、
 実際に大津宮を発掘されました
林 博通、田辺昭三、松浦 俊和のお三人の著書を紹介しました。

林 博通著 さざなみの都 大津京の始めの部分をそのまま、紹介します。

一章 大津京前史
 歴史の裏舞台近江
 青く澄みわたった空と満々と碧水をたたえる湖、この青と碧との空間に,それらを裂くかのごとく横たわる比良や鈴鹿の連山、そうして蝶のように舞い動く白いヨット、湖岸に打ち寄せるさざ波にさやさやとそよぐ葦の葉。近江ののどかな春の風情である。
 一見何事もなかったようにたたずまうこの大自然も、往古よりそれぞれの時代に必死に生きてきた人々のいきざまを、そしてその栄枯盛衰を奥深く刻み込んでいるのである。
 一見何事もなかったようにたたずまうこの大自然も、往古よりそれぞれの時代に必死に生きてきた人々の生きざまを、そしてその栄枯盛衰を奥深く刻み込んでいるのである。平氏を打って京に入り、一時は天下をとった木曽義仲も粟津の湖畔で敗死した。また、奈良時代、淳仁天皇の信厚く
権力をほしいままにした藤原仲麻呂(恵美押勝)も弓削銅鏡の台頭により乱を起し、湖畔で露と消えた。さらに、壬申の乱により英明のほまれ高き大友皇子も大津宮とともにはかなく散ったのである。

タイトルの一章 大津京前史は、表紙のタイトルの「さざなみの都 大津京」の大津京が存在したことを記しますと宣言して居られます。

 始めの三行は、毎日のようにひたすら、土ばかりを掘り続け、大津京の存在を信じて、考古学からその証拠を見つけようと、発掘を続けられた林 博通さんが、発掘の合間に、周りを眺められた時の景色が書かれています。

 その後は、考古学だけではなくて、この地で、亡くなって行った人達の歴史を頭に描きながら、発掘を続けておられる様子が書かれています。

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