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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(124) 壬申の乱(75) [古墳から探る歴史]

日本の歴史を考える時に、やはり、証拠になるものの、大部分は、どこそこに書いてあると証拠になるものを提示して、考えを進めて行くことになります。

 上の文章は、前回に書いた文章です。
書きながら、「なんだか変な文章ですが、大津京は、無かったことを次回から書いてみようと思います」と書きました。

 日本の歴史を調べる時に、その方法は、次の三つが有ります。
①文献史学----これが前回書きました、書いてある証拠になるものを提示して、考えを進めます。

②考古学----これは、書いてある物を元にして、考えるのではなくて、例えば、遺蹟から出土した土器を元にして、歴史を考える方法です。

③民族学----①に負う事が多いですが、言い伝えられて残るものを含めて、考える手段にするように思われます。 例えば、神話と云われるものも含めて、歴史に迫ります。


大津京の研究は、散発的に行われました。
一般の住居が、住む人が居られなくなって、壊された時に、次の持ち主が新しい家を建設する前に、滋賀県では、その住居跡を発掘し、発掘されたものから、大津京と関係があるかを調べようとされました。

 その様子は、発掘を担当されました方が、その報告書の意味で、本を出版されました。


1考古学ライブラリ  27
「大津京」  林 博通著  59年9月発行

2. さざなみの都  大津京 林 博通著

3.【よみがえる湖都】 大津の宮時代を探る 田辺昭三氏

最近、もう一度、大津京が有ったと云われる所を訪れる機会があり、大津歴史博物館を訪れました。 其の時に手に入れたのが、
大津市歴史博物館 「 研 究 紀 要 」5
 です。これは、少し古いですが、1997年(平成 9年)の冊子です。

  ここに(論文)と題して、
 近江大津宮新「京域」論 松浦 俊和
のタイトルで、論文を書いて居られます。

Ⅰ はじめに  の部分のみの文章を読んで頂こうと思います。

1 はじめに
 昭和四九年(1974)末、大津市錦織Ⅰ丁目の住宅街のいっかくから、大津宮のものと推定される大規模な掘立柱建物跡(推定内裏南門)が発見された。以来四半世紀余りを過ぎ、現在では錦織一・二丁目を中心とする地域の十数地点から、大津宮に関すると見らられる建物遺構が検出されている。そのなかには、前期難波宮の内裏前殿にあたる可能性をもつ大規模な建物跡や、く書くのための板塀跡、推定朝堂院第一堂などが含まれており、ようやく宮の中枢部分の建物配置が復元できるようになってきた(図1)。これら平行して、周辺ちいきの発掘調査も進み、穴太廃寺など、大津宮に関連する遺蹟の発見が報告されている。
 だが、その一方で、明治期以降、多くの研究者たちが取り組んできた「京域」研究は、その存在を示す道路跡などの遺構の検出がないことから停滞してしまっているのが現状である。錦織地区の発掘調査が盛んになった昭和五十年代以降、〝大津宮には「京域」は存在しなかった〟とする考え方が大勢を占める様になり、大津宮「京域」論は話題にも上らなくなってしまった。
 本論は、この死語と化してしまった大津宮の「京域」について、ここで改めて取上げ、まったく別の視点から検討を加えることにより、新たな大津宮「京域」論を提唱することを論旨とする。

以上が、はじめにの部分の文章です。
 
「京域」という言葉は、辞書にあるのでしょうか。新しい辞書は持っていませんので、良く解りませんが、松浦 俊和氏は、大津京という都は無かったが、平安京と言う名が有る様に、大津京は無かったが、それに相当する大津の都(みやこ)といっても良い地域は有ったのではないかと考えて、大津京に相当する「京域」が有ったのではないかと考えられて、
近江大津宮新「京域」論 のタイトルで、大津京に相当するものが有ったことを立証しようとされていることが判ります。

さて、25頁に及ぶ大論文ですが、結論ですが、最後に、
おわりに---結論にかえてのタイトルがあって、結びになっています。
即ち、結論は無かった(大津京域はなかった)ので、おわりの言葉を書いて居られます。


長くなりましたが、其の後、大津京は有ったと云う論文は見付けることが出来ません。


大津京が実在したのか、しなかったのかは、結局分らないことになります。

これまでの経過から見ますと、
大津京は、
①文献史学
②考古学
③民族学--
 3つの方法で、解明しようとされました。考古学の資料は沢山見付かりましたが、文献史学からは、追求出来ません。

 私は、
1.「大津京」  林 博通著  59年9月発行

2. さざなみの都 林 博通著

3.【よみがえる湖都】 大津の宮時代を探る 田辺昭三氏

に書かれていることからだけで、大津京はあったことは説明出来ませんが、無かったことは説明できると考えました。

次回に、其の考えを書いてみようと思います。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(123) 壬申の乱(74) [古墳から探る歴史]

日本書紀は、中国寄りの記事が書いてあると田村氏は、9回にわたって書いてこられました。 それをそのまま、拝借して、書いてきました。
 毎回、難しかったと思います。その所為かどうか解りませんが、始めに較べて、アクセスされる方が半分になりました。

 日本の歴史を考える時に、やはり、証拠になるものの、大部分は、どこそこに書いてあると証拠になるものを提示して、考えを進めて行くことになります。

 所が、田村氏は、日本書紀に書いてあるからといって、まるっきり、信用しては駄目だと、述べておられます
 そして、出版された本が、『壬申の乱は日唐戦争』です。 この本の始めの3ページから、ずっと、続けて、転載した記事を紹介してきました。現在は、61ページです。

 この『壬申の乱は日唐戦争』を発行された時は、昭和59年11月です。

 この頃は、大津に、大津京がある様に思われます。次の本に、その研究成果が書いてあります。

考古学ライブラリ  27 「大津京」  林 博通著  59年9月発行

この方は、文化財保護協会調査部長 で、53年発行の著書
 さざなみの都 大津京

を出版されています。

もう一冊、紹介します。タイトルには、大津京の言葉は有りませんが、

【よみがえる湖都】 大津の宮時代を探る 田辺昭三氏  58年12月 発行

1974年 奈良大学教授
京都市埋蔵文化財研究所調査部長(1978年以降)


お二人は、発掘される時は、時には、御一緒に仕事をされておられた様に思います。

滋賀県は、厖大なお金を掛けて、次々見付かった遺蹟の発掘をされました。その発掘に携さわられたお二人は、大津京は、殆ど、存在したという感触を持たれて、58年に本の形にされました。

 林 博通は、少し遅れて本を出版されましたが、大津京の存在は、少し、自信の無い内容になりました。

 私は遺蹟の発掘に関する知識は 全くありません。又、歴史のことも興味が有るのことですが、お二人の本を読みましたら、大津京は無かったのだと思う様になりました。

 5行目から私が書きました文をもう一度書きます。

日本の歴史を考える時に、やはり、証拠になるものの大部分は、どこそこに書いてあると証拠になるものを提示して、考えを進めて行くことになります。

 なんだか変な文章ですが、大津京は、無かったことを次回から書いてみようと思います。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(122) 壬申の乱(73) [古墳から探る歴史]

 このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の61ページの文章です。

中国偏向の日本書紀 (9)
 崇神天皇の御世が魏志倭人伝の時代である。この天皇がおられた大和を包囲していたのは高句麗人だった。このため天皇の代行として伯母の夜麻登登母母曽姫が備前におられた。
この備前の北の美作の久米郡が、神武東征で活躍した久米のつわものの本拠地で、狗奴国と魏志倭人伝に書かれ、ここの王が崇神天皇の義弟の日下坐王である。
 丹波の伊勢大神宮を拝き祭っていたのは、古事記で崇神天皇の妹だと明記されている。従ってこれらの天皇一族は、不比等に取って最も好ましくない人物だ。日下坐王は仮空の丹波道主命を登場させていた。
 夜麻登登母母曽姫は、倭トド百襲姫と、百人も襲った名前に替え、夢に大物主神を登場させて神話的結婚をさせている。更に手がこんでいるのは、この姫が自殺したかの印象を与える作文を行っていて、この姫ではなしに倭トド姫が自殺し箸墓に葬られたと記した。
 この倭トド姫も開化天皇の妹で仮空の人物だった。崇神天皇一族は、魏軍を破った好ましくない人物で日本書紀は抹殺したのだ。


私からの一言
 読まれてお解りになられましたか。私はチンプンカンプンなので、
夜麻登登母母曽姫がおられた備前に行ってきました。 そして、備前の北の美作にも行ってきました。
 そして、11もある龍王山を全て、見てきました。
竜王山を検索しますと、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

竜王山(りゅうおうさん、りゅうおうざん)という名称をもつ山は瀬戸内海沿岸を中心に各地にある。その名は八大竜王、すなわち水・雨をもたらす竜王を山頂に祀り、いわゆる雨乞いを行う山の意が込められている。
地図上の地名に現れないが、竜王(龍王)山とも呼称される山も多数ある。これは雨乞いの際には、煙を起こすなどの祭祀行事を行うため、天に向かって高く聳える山がその条件を満たすことになり、極論すれば集落ごとにそれを呼称する山があってもおかしくはない。 山岳信仰の対象でもある。
と記されていますが、此の山の周りには、かっては、中国人の人が住んで居られたのではないかと思いました。
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E7%AB%9C%E7%8E%8B%E5%B1%B1全国にある竜王山を調べますと、この私の仮説は立証出来るのではないかと考えています。

 次の記事は私が書いた記事です。
岡山県の龍王山
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-11-18

歴史の解明には、歩くことが重要です。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(121) 壬申の乱(72) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の60ページの文章です。

中国偏向の日本書紀 (8)

日本書紀で好ましくない天皇は先づ神武天皇である。この天皇が東征に出発した地点を全く明かしてない。学者は暗示にひっかかって日向の国としたが、日向の地名は伯耆の日本海随一の良港のことだった。地図では境港の対岸であり、当時境港は夜見島で、米子とはまだ継ってなかった。
 神武天皇の義父君が大物主神であることを恐れて事代主神に、紀では改めてある。そしてこの大物主神は崇神紀に神話として登場させて偶像の神に仕立ててある。更に皇后を大和に来てから迎えた様に偽証の地名まで設けていた。これについては後に記述してある。
 孝霊天皇は漢が占領していた吉備を征伐した敵である。このために吉備津彦と称する、如何にもホントらしい人物を崇神紀に創作したのである。丹波征伐は、魏の軍隊を攻撃しクガミミノミカサ(難升米)を殺したので、仮空の人物を、ただ丹波に遣わしたとだけ書いた。大毘古命とタケヌナカワワケが東日本全域の華僑を征伐したが、これは中部地方までにとどめ、藤原の地盤の東国を除外した。


私からの一言
 <中国偏向の日本書紀>は、今日で8回目になります。 
この部分は、日本書紀を書いた人は、日本の歴史を書こうとしたのではなくて、中国人に都合のいいように書いていると、田村氏は述べようとしておられます。
 時代は、天武天皇の時です。 天智天皇は大津京を開いたことになっていますが、天皇の屋敷があった錦織に一度行かれれば、分かります。屋敷跡は、100坪ほどの広さです。 ここを中心に、あちこちに、飛び飛びに、存在する大津京の遺跡を歩きますと判ると思います。
 2時間もあれば、すべて、歩くことができます。ここに、天智天皇は幽閉されていた-----、誰にかといいますと、中国人にです。
 、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』から転載した<中国偏向の日本書紀>は、人身の乱は、天皇家の皇族継承争いではなくて、 日唐戦争であった証拠の一番重要な部分だと思います。

 田村氏は <中国偏向の日本書紀>のタイトルを書いておられますが、偏向どころではないと思います。古事記を抹殺するための日本書紀を制作したと考えます。



小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(120) 壬申の乱(71) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の59ページの文章です。

中国偏向の日本書紀 (7)
 日本書紀の編集者は同俗の中国人が官軍と戦って破れた話は書きたくないのが当然である。日本書紀の崇神紀には各所に「海外の俗」が騒いだと明記され、ある箇所では本国すなはち中国に引揚げたとまで書かれている。編集者が中国人だったことは、日本書紀自体が証拠であった。
 この日本書紀編集の責任者は藤原不比等でなければ矛盾したことにならないか。この人物がすでに天武天皇の実権をはく奪し幽閉していた。天皇の一味は全て好ましくない人物である。この第一にあげられるのが天照大御神で、従って現在の伊勢神宮に移される前に笠縫にあったと所在を不明にした。笠とは丹波の加佐郡で大江山の伊勢大神宮に該当する。
 次に好ましくないのは天照大御神に平和交渉で国を譲った大国主命である。紀では国譲りで入人自殺に見せかけ、出雲大社は抹殺してあった。第三は神武天皇の義父にあたる大物主神で、現古事記では伯耆に渡来した時にこの人物名を抹殺したために、記述としては異常である。



私からの一言
上記の「大江山の伊勢大神宮」は、元伊勢内宮:皇大神社のことです。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/motoisenaikuooe.html


この神社には、厖大な神さんが、祀られています。 この神は、古事記に登場する神々です。 どうして、これだけの多くの神が祀られているか、解明されるべきだと思います。

田村誠一氏は、古事記を書いた人達が、どこからか移動してきて、「大江山の伊勢大神宮」
の所で、生活を始めたのだと推理して居られます。では、どこからやって来たかと云いますと、
蒜山高原からやってきたのだと・・・・。蒜山高原には、一つの神社で、これだけの神をお祭りする神社は有りません。しかし、蒜山には、古事記に書かれている神を祀る神社が揃っています。

 次のページの前後に書いています。
 日本大好きNo120 高天原はヒルゼン高原だった 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-09
 No4までありますから、移動して、ご覧ください。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(119) 壬申の乱(70) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の58ページの文章です。

中国偏向の日本書紀 (6)

四道将軍の残の二人の人物は古事記と日本書紀では一致している。古事記では大毘古命は北陸道から会津まで賊を征伐して進んだ。この賊とは絹を密輸出していた漢族すなはち華僑と考えてよい。大毘古命の子のタケヌナカワワケは東の道十二道に同じく賊を征伐して会津で父と落合った。これが会津の地名の起りだと書かれている。会津若松の伊佐須美神社には、二将軍が出会った由緒が残っている。現古事記で相津と地名を謎にしたのは1263年に藤原朝臣が改ざんした証拠だ。
 古事記では吉備征伐を行ったのは大吉備津彦と若建吉備津彦である。この人物が仮空でない証拠は伯耆の九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた。又由緒では鬼林山(日南町)、鬼住山(溝口町)の鬼を征伐した詳細の記述が残っている。吉備にはこの二将軍はもちろん兄妹の夜麻登母母曽姫が祀られた神社が存在する。
 吉備の鬼征伐の伝承は官軍に攻められて巨人古墳群の西の鬼ヶ城に立籠った中国人、温羅を征伐した事実を語ったものだ。


私から一言--「九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた」と書いてありますが、ご自分で必ず、さがしてください。

 若建吉備津彦と関連のあることは、次の所に書いています。
①孝霊天皇、漢人を攻撃する
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-29

②孝霊天皇の吉備征伐
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-10

③東楽々福神社 
ここに、若建吉備津彦命が祀られています。
楽楽福神社と呼ばれる神社は、6社あります。
楽楽福神社の事は、次の所に書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/archive/c35373229-3

6つのうち、祭神が、大日本根子彦太瓊命と書いてある神社は、8世紀以後に、藤原氏の支配を受けて、このように祭神をうたうことを強制されたと思います。東楽々福神社も、大日本根子彦太瓊命と記すように云われたと思いますが、従わなかったか、例えば、江戸時代とか、明治時代になってから、祭神を変えられたと思います。
この5つの神社には、大吉備津彦と若建吉備津彦も祀られていたと推理しています。


小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(118) 壬申の乱(69) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の56ページの文章です。


中国偏向の日本書紀 (5)
 四道将軍の今一人の丹波道主命も古事記に見当らない人物である。この人物は9代開化天皇の王子の日子坐王の更に子供である。従って10代崇神天皇の10年にはまだ生れておらないと考えてよい。従って吉備津彦と丹波道主命が同時に出陣することはあり得ない。
 古事記では丹波征伐したのは日下坐王で、日本書紀の彦坐王に該当する。日本書紀は丹波征伐の手柄を日下坐王にしたくなかったので、仮空の人物を登場させたのである。
 古事記では孝霊天皇の御世に大吉備津彦と若建吉備津彦に吉備征伐をさせている。中国で倭国大乱が収ったのが180年代で、私の16頁の年表では孝霊天皇の御世である。
 中国で倭国大乱とあれば、「大」は天子や皇帝を意味する。大礼、大典、大葬がその例で従って倭国大乱とは日漢戦争を意味する。
 魏志倭人伝で魏と句奴国が戦ったのは、句奴国とは久米国のことで、ここは天皇軍隊の本拠地で、美作の久米郡のことだった。これは従って日魏戦争で、この時も魏が大敗し時代は240年代だった。


私からの一言 
田村誠一氏は、日本書紀は、中国寄りの記事が書かれていると取上げておられます。
 古事記が出来たのは、712年です。僅か、8年後の720年に日本書紀が作られています。両方とも、この時代の歴史書とされています。
 何故、同じ時代に、国史が作られたのかを考える時に、「中国偏向の日本書紀」がヒントになるのではないでしょうか。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(117) 壬申の乱(68) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の56ページの文章です。


中国偏向の日本書紀 (4)
 日本書紀で10代崇神天皇紀の9月9日に「大彦命を北陸に遣す。タケヌナカワワケを東海に遣す。吉備津彦を西道に遣す。丹波道主命を丹波に遣す」とだけ書かれ、賊を平下で10月1日には帰還したと書かれている。
 東大の黒坂博士は日本書紀の記述には正確に日付が入れてあったので、国史の基本にした。そしてわたし達戦前の者は、これを四道に将軍を派遣したとして教えられた。
 古代に僅か22日で賊を平げ、しかもそろって同日に帰還することが、果たして可能だろうか。更にこの場合には日本書紀独特の「一書に曰く」すら見当たなかった。
 吉備津彦は日本書紀にしか登場しない人物で7代孝霊天皇の王子である。孝霊天皇のあとには孝元、開化、崇神と続いていて、夫々の天皇の在位が書かれている。吉備津彦は崇神天皇の60年に出雲征伐に出かけている。従ってこの時には230才位に達しており、四道に派遣された時は180才位である。吉備津彦は古事記の大吉備津彦や若建吉備津彦と誤認させるための架空の人物だった。


私からの一言
 このページは、読むたびに、「吉備津彦は崇神天皇の60年に出雲征伐に出かけている。従ってこの時には230才位に達しており、四道に派遣された時は180才位である」の部分は、書いてあることは正しく無いなと思うのですが、
① 大彦命を北陸に遣す
② タケヌナカワワケを東海に遣す
③ 吉備津彦を西道に遣す
④ 丹波道主命を丹波に遣す
  この四人は、物見遊山ではありません。しかし、仮に歩いただけでも、歩いてくることはできるのだろうかという疑問はあります。

 では、日本書紀は、何をこの部分で、言いたかったのでしょう。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(116) 壬申の乱(67) [古墳から探る歴史]

  このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の55ページの文章です。


中国偏向の日本書紀 (3)
日本書紀の記述を信用すると応神天皇は神功皇后紀元年に出生されたことになる。これから6代後が雄略天皇である。この間で履中、反正、允恭天皇は兄弟であり、安康天皇と雄略天皇も兄弟である。これを考慮に入れれば雄略天皇の曽祖父が応神天皇である。
 神功皇后紀の39年が仮に239年とすると応神天皇は201年生れである。雄略天皇が450年代に即位されたとすれば250年前に曽祖父が生れたことになり人道的常識に反する。これを干支二回り120短くすれば、皇太子は20才台の時出生されたことになり、常識的な値になる。日本書紀は干支を狂わせない様に60年単位でシフトさせた犯罪の手口がつかめたことになる。
 現古事記ではこの120年のシフトに合せるために、応神天皇と雄略天皇の享年を60年ずつ引延してあった。この享年を修正するだけで、16頁の年表(歴代天皇家年表)では応神天皇から雄略天皇までの皇太子が出生された時の年令が常識値になった。従って9名の天皇の享年が、60年ずつ伸ばしてある根拠が得られた。


私からの一言 このタイトルを見ただけで、読むのが嫌になる方が多いと思います。しかし、このページは、読み過ごすのではなく、書いてあることが、本当がどうか、ご自分で確かめてください。


小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(115) 壬申の乱(66) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の54ページの文章です。

中国偏向の日本書紀(2)
 日本書紀では三十巻の中の一巻が全て神功皇后紀で占められ、天皇紀と同じ体裁である。しかも神功皇后は69年まで書かれ、これでは神功皇后が独裁でこの間は天皇が無視された記述である。神功皇后が三韓征伐を行ったと詳説していた。しかし古事記では神功皇后は三韓征伐はしておらない。日本書紀は中臣が行った朝鮮でのゲリラ活動を自己宣伝するためこの一巻を設け、他方で魏志倭人伝で魏が大敗した事実隠しに利用していた。
 この神功皇后紀の39年に「是の年太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月倭の女王太夫難升米等を遣わし云々」と卑弥呼が魏に使者を派遣した記述がある。日本書紀では即位の年しか太歳は書かれていないのにこの39年に限って太歳を入れたことは作為的と考える外ない。しかも景初三年(239年)の太歳も己未で一致していた。日本書紀に注があれば、要注意である。
 神功皇后は九州におられ、三韓までも精しいのに、倭の女王の詳細が分らない位矛盾した編集方針が許されるだろうか。

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