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村社 立原神社 [日本の歴史]

東伯郡西郷村大字上剩由緒 創建年月不詳と雖、字立原 鎮座
 
祭神 伊弉諾尊、速玉之男命、事解之男命、倉稲魂神

  由緒 創建年月不詳と雖、往古より熊野三社権現と称し、大字
  上餘戸字小瀬ヶ谷山林内に三社を建立し崇敬せしものなりしが、
  境内地の狭隘と崇敬上の不便の不便とに依りて右社殿を現今の
  地に奉遷祭祀せしものなり、然るを明治元年十一月三社を合併
  して一社となし社号を立原神社と改称せられ、一社となし社号
  立原神社と改称せられ、同時に末社の神(祭神倉稲魂神)を合祭
  す。

 例祭日  十月十九日
 建造物 本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫
境内坪数 三珀四十七坪
 氏子戸数 五十四戸
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村社 大原神社 [日本の歴史]

鎮座地 東伯郡西郷村大字大原字宮ノ下   地図 


現在地 鳥取県倉吉市大原619番

祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳神、天穂日神、天津彦根神、活津彦根神、
素戔鳴神、熊野樟日神、倉稲魂神、天満天神

由緒 旧記に拠れば大化三年(647)丁未九月山城国宇治郡宇治郷社許波多
神社より正哉吾勝勝速日天忍穂耳神を勧請し社殿を創建して崇敬せしを、明
徳二年(1391)、祠官村上尚喬国司の命により神殿を再建し、同時に天穂日
神、天津彦根神、活津彦根神、熊野樟日神の四柱の神々を各々別殿に勧請
し、本摂共に五社となし以て五社大明神と称し崇敬篤かりし神社なりと、中世
の頃社域の南方に神宮寺を設立して密宗の僧都宥看を社僧となし祭儀を掌
らしめしが、大永年中(1521-1527) 神宮寺焼失の後は之に仕ふる僧侶もな
く、社殿は年と共に破壊す、祠官村人共に之を憂ひ天文年間(1532--1554)五
社を合併して一社となし、以て尊厳を保つに至れり、明治維新の蔡社号を大
原神社と改称せられ、同時に末社の神素戔鳴神、倉稲魂神、天満天神の三
神を合祭せらる、元禄(1688--1703)の頃には、此の社を伯耆式内六社の一
の波々岐神なりと云ひしが如し、元禄七年武内自安子の記せる「伯陽六社み
ちの記」に大原の里に行 (中略) 第二の宮波々岐ノ神社へ先まうて奉らんと
いへば、あるしともなひ祠官村上氏佐内尚重の家に行縁起なと望みて聞に、
神は正哉吾勝尊にておはします。其の外の神々も御同殿にあかめ申せば、
五社大明神ともいひしとんなん、文しけゝれば
略し侍るそれよりも尚重あなひして社の御戸をひらきてねん比におかませらる
(下略)と記せり。

例祭日    10月9日
建造物    本殿、弊殿、拝殿、宝物殿、随神門兼神楽殿
境内坪数   851坪
氏子戸数   85戸
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村社 本泉神社 [日本の歴史]

東伯郡旭村大字本泉字宮ノ馬場 鎮座

 祭神 国常立神、大山祇神、菅原神
 由緒 創立年月不詳、当社は往古より妙見大明神と称し、
    本泉区の産土神たり、維新の際本泉神社と改称す。
    此時境内末社(祭神大山祇神、菅原神 ) を合祭せ
    らる。大正九年二月十一日 神饌幣帛料供進神社
    に指定せらる。

 例祭日  十月十日
 建造物  本殿、幣殿、拝殿、参籠殿、随神門、神與庫
 境内坪数 九百六十六坪
 氏子戸数 五十一戸
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