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村社 上里神社 [日本の歴史]

東伯郡日下村大字清谷字宮下 鎮座

祭神  天津日高日子番能字邇々芸命、天児屋根命
    天鈿女命日下神、新宮神

由緒  起原沿革不詳、但し、日下神新宮神の両神は明治元年合
祭、大正九年十月三十日 神饌幣帛料共進神社に指定せらる。
御鎮座の由来と云えるものに、神倭天皇日向より東夷平定に
山陽よりし給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、
神倭天皇東夷を平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲
飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只 刺す夕日の
日蔭る清の地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を眞日
向に建て、吾魂を齊奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かなら
ん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、
神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齊神籬
を建て仕奉りし天の神の宮なりき、此里を清滝と曰ひしは、
天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神麗を斎き奉る里と
云ふ意を以て清滝を命名せしと伝ふ、伝曰元慶七年十二月二
十八日従五位下に敍せられたる天の神の宮なりと、其の神籬
にすぎと松を建つるを例とすと今神社の右の方に廻り二丈の
    松の老樹、左の方に杉ありき、則古例によるものと、文
明八年神籬の白檀杉と云ふ老て限を示せしに依り、伯耆氏六
十四世重業改めて建てむとせしが、夢に三神の神影を拝し、
?き状と日は七日夜は七夜齊戸籠り、神勅により神影を拝せ
しま ゝ三神體を自刀し奉りし御神體を齊奉りき、現に御鎮座
の御 三柱の神像なり。

例際日  十月十日
建造物  本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、寳蔵庫、
     随神門
境内坪数 八百七十六坪
氏子戸数 九十九戸
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