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県社 倭文神社 (その2) [日本の歴史]

前回の「県社 倭文神社」の続きです。

 由緒
  羽衣石城主南條元続当社の荒廃をを歎き再興を計り
  崇敬浅からず、神領を改め新地を寄せ代官貝屋青木
  の両人をして社領の監査に従はしむ、慶長五年又災
  火に罹り社殿鳥有に帰す、寛永の始新に社殿を造営
  す、同十年十一月国主池田氏社領四石九斗二升を寄
  進す、寛永二年本殿再建の工を竣るや国主池田氏よ
  り白銀十枚を奉納せらる、其の後社殿大破し先例に
  依り官の允許を得て伯耆国内に資材を募り、文化十
  五年竣工す、今の本殿是なり、神輿渡御も昔時は春
  秋二回盛に行ひしが、天正の頃より中絶せしを、延
  享二年四月再興せしが、山内固めとて藩老和田氏よ
  り敬語の士鉄砲六人づゝを附せらる。
   当社の末社昔は八十余社ありしが、戦乱の為に破
  壊せられ, 嘉永年度には僅かに十二社存せしが、明
  治維新の際廃せられ更に早稲田社、藤津社、長江社、
  北野社、宇野社、宇谷社の六社を付属摂社と定めら
  る、続いて社号を倭文神社と改められ、県社に列す、
  明治四十二年二月三日神饌幣帛料共進神社に指定せ
  らる。大正四年十二月旧境内字御参所より仏像古鏡
  経筒等を発掘す、康和五年の銘あり大正九年四月出
  土品全部を国宝に編入せらる。
  
 例祭日  五月一日
 建造物  本殿、祝詞舎、拝殿、透塀、神楽殿
      神セン所、数寄屋、寳庫、神輿庫、随神門
      社務所、手水舎
 境内坪数 三千九百十五坪
 氏子戸数 五百二十一戸
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