SSブログ

崇神天皇三兄妹(12) [日本の歴史]

魏は三国志の時代の北の国でここの船は湖水とクルーク用だから、カイでこぐ船の構造である。
海洋に出れば、一たまりもなく、難破するだろう。
 呉や蜀の船は揚子江の三峡の険を190キロも遡航出来る軽い帆船だった。
 シルクロードの奥地やチベットから日本海沿岸に直行できる皮船があった。
 丸木をくって作った船は、あくまでも近距用であった筈だ。
 古代史の謎は、古代の船を使い分けることで解ける様だ。
 難升米は魏の都に半年滞在中に軍用道路を建設したのは、魏の軍隊を港まで運ぶ専用道路だと述べておいた。
 この道路を必要とする位の大軍が、日本に派遣されて恐らく全船沈没した筈だ。卑弥呼を殺したあとの戦死者千余人と魏に逃げ帰ったのが20人にす過ぎなかったことからの推察である。上陸に成功した人はなかったのである。
 三国志等を眺めると西域等でも大作戦には20万以上の動員が多いことがヒントだ。



         
      ― 60ページより引用 ---


私からの一言
 このぺージには、急にシルクロードの名前が登場しています。
日本海を渡る航路も膨大な距離ですが、シルクロードと呼ばれる、絹を運ぶ川のことを記しておられます。

絹のことを書かなくては、日本の歴史は、成り立ちません。 日本の歴史家は、どうして、世界で一番、絹を利用した国が、日本であったことを書かなかったのでしょうか。

「魏は三国志の時代の北の国でここの船は湖水とクルーク用だから、カイでこぐ船の構造である。
海洋に出れば、一たまりもなく、難破するだろう。
 呉や蜀の船は揚子江の三峡の険を190キロも遡航出来る軽い帆船だった」

著者の田村氏は、上記の文書に見られるように、魏の国の三国志の時代に居られます。 それだけではなくて、早くも、革製の船に乗って、チベットから、船旅に出られています。船は想像だけではなくて、二枚の写真が添付されています。
nice!(1)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。