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崇神天皇三兄妹(14) [日本の歴史]

魏志倭人伝は卑弥呼のために大きな墓を作ったと書いた。人質を殺したと、さとられないために全くのウソを書いたのである。戦争を中断してまで墓を作ることがあるだろうか。後味が悪いから作文したまでだ。
 日本にやっと完全平和が訪れたのである。これまで日本には大形古墳の経験も職人もゼロだった。吉備には漢が立派な前方後円墳を残した。これよりお粗末な三兄井毛に作れるだろうか。
 外形の前方後円はまねすればよかった。しかし内部構造は知る由もなかったし、石工の職人も居らなかった。
 ミマツヒメのために、墓が作られた。これが国産の大型古墳の一号である。次いで10年後に亡くなった崇神天皇の墓が、墓にくっついて作られたのでる。
日子坐王の墓を恐らく吉備の漢の古墳より大きいのが残されている筈だ。 
 やっと古代史は崇神天皇まで追求できた。全てがあまりにも思いもよらないことだった。



私からの一言
卑弥呼に関する資料は、ネットに限りますと、次のようなものが見つかりました。

卑弥呼の資料
①卑弥呼の墓は、邪馬台国は、どこにあったの?えっ、徳島県?

https://yamatemama.com/himikonohaka/

②邪馬台国の女王 卑弥呼
http://rekishi-memo.net/yayoijidai/himiko.html

③邪馬台国と卑弥呼についてわかりやすく
 https://jahistory.com/yamataikoku-himiko/

④卑弥呼
『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

ざっと、目を通しましたが、「卑弥呼」という名前は、中国の魏志倭人伝という書物に掲載されているだけです。

卑弥呼に関する書籍はいっぱいあるようですが、書かれていることは、どれも正しいという証拠はありません。
 ということで、正しいとは限りません。だからと言って、書かれていることは、まちがっているかといいますと、その証拠もありません。

 
中国に残されている「魏志倭人伝」という書物に、「卑弥呼」という女性の名前が、書かれていることは、事実ですが、単なる小説のようなものかも知れません。
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崇神天皇三兄妹(13) [日本の歴史]

漢の軍隊が九州と吉備を占領していたのは190年まてである。
 この時崇神天皇は40才、妹のミマツヒメ(卑弥呼)は38才位だった。
 義弟の日子坐王は35才位だったろう。日子坐王は久米国で直接漢軍と対じしていたのである。戦線はこう着が続いていた。
 ミマツヒメは丹波で天照大神と月読命の墓守をしていた。
 これから50年後にミマツヒメは、魏の人質に取られて殺された。この妹を取り戻すべく戦ったのが崇神天皇であり、義弟の日子坐王だった。
 この三兄井毛は漢軍と戦って勝ち、魏の無理難題に一歩も退かなかったのである。
中国はこの二つの戦を歴史にカムフラージしても載せないわけには行かなかった。あまりにも大きな犠牲で人民にかくすことが出来なかったのである。
 日本国内の争いなら倭国大乱を取上げる筈もないし、魏の軍使が飛んで来るのもおかしい。
 しかしこの謎は解けたと考えたい。



           ― 61ページより引用 ---




 私からの一言
190年ころまでは、日本史には、漢に占領されていたと記されています。ご存じでしたか。このページでは、 この時の様子を別の角度から書いておられます。多くの日本の歴史書は、日本人同志が、戦をした歴史ばかりです。
 このページは、誰と誰が、戦をした言葉はありません。
 1ページの中に、多くの事柄を書いておられます。

「全てがあまりにも思いもよらないことだった」 とは、どういう意味でしょうか。
なんだか、ため息が聞こえるような気がします。
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